大田市街戦
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このころ、大田市内では、一線の各大隊の健在を信じて、ディーン少将と第34連隊本部が北朝鮮軍戦車部隊との戦闘を繰り広げていた。第34連隊は、新兵器であるM20スーパーバズーカを受領しており、午前9時までに侵入してきた5両のうち4両を撃破し、午前中にさらに4両を撃破した。また、2両が155mm榴弾砲の対戦車榴弾で破壊され、空軍も5~6両を撃破した。ここでバズーカで撃破されたうちの1両は、ディーン少将自身が指揮するバズーカ班が撃破したものであった。 このとき、第21連隊は、大田東方において、大田と沃川の間にある第1トンネル南北の線を占領して、師団主力の退路を援護していた。しかしこのとき、大きな齟齬が生じていた。すなわち、実際には、この防御線上にもうひとつのトンネル(第2トンネル)があったのにもかかわらず、このことを、第21連隊本部も師団司令部も承知していなかったのである。そして第21連隊は、現地で第2トンネルのみを発見し、これのみを守備するように配置して、第1トンネルは見逃されていた。一方、第21連隊がトンネルの守備についた旨の報告を受けた第24師団司令部は、当然、第21連隊は、この方面の唯一のトンネル(=第1トンネル)を守備しているものと承知していたのである。 正午ごろ、大田東方に敵の大縦隊を発見した砲兵隊の観測将校は、これをビューチャムプ連隊長に直接警告したが、連隊長はこれを第21連隊と誤認し、砲兵射撃を禁じてしまった。また、午後1時ごろ、宝文山上にいたアイレス大隊は、錦山道を北進する北朝鮮軍の大部隊を発見し、副大隊長ダンハム少佐に指揮された中隊規模の部隊によってこれを攻撃したものの、この攻撃は失敗し、ダンハム少佐は戦死してしまった。 午後2時過ぎ、ディーン少将は、第34連隊に対して撤退準備を指示した。このとき、ディーン少将とビューチャムプ大佐のいずれも、アイレス・マックグライル両大隊の健在を信じており、状況は決して憂慮すべきものではないと考えていた。午後4時ごろ、最初の車両部隊が永同に向かって後退を開始した。 このころ、ハーバート少尉の率いる第19連隊G中隊第2小隊は、大田の西南端に陣地を構築していた。ハーバート小隊は、本来、マックグライル大隊が後方の退路を啓開するために派遣したものであったが、その後、本隊と連絡する術を失ったために、マックグライル中佐はこれが全滅したものと思っており、ハーバート少尉は、本隊が論山道の陣地を放棄して宝文山に登ってしまったことを知らないままに、現在地を固守していたものである。午後4時ごろより、ハーバート小隊に対する攻撃が活発化しはじめたが、ハーバート小隊は奮戦して、どうにかこれを撃退していた。しかしこの奮戦ぶりから、ディーン少将は、ここにマックグライル大隊の本隊がいるものと誤認してしまっていた。しかし兵力差は圧倒的であったため、ハーバート小隊はやがて撃退された。ハーバート小隊の背後に布陣していた混成砲兵大隊では、砲が鹵獲されそうになったため、連隊本部が逆襲する騒ぎになった。 ハーバート小隊がついに撃退されたのと前後して、永同に向かって後退していた車両部隊が、第1トンネルにおいて射撃されて全滅したという報告がもたらされた。このとき、第21連隊は第2トンネルを固守しつづけていたものの、依然として第1トンネルの存在を見逃していたのである。この直前、主力の後退を見届けようとしていた第34連隊長(ビューチャムプ大佐)は、偶然、第1トンネルが無防備であることに気付き、工兵部隊と通りかかった戦車2両にこれを掩護するように命じたうえで、第21連隊に増援を要請しようとしたが、双方の情勢認識に差があったために手間取ってしまった。結局、第21連隊からの増援は得られず、ビューチャムプ大佐は、偶然に遭遇した自分の連隊の中隊を連れて引き返したが、このとき、既に第1トンネルを防御していた臨編部隊は全滅し、トンネルは北朝鮮軍の手に落ちていた。 ディーン少将は、第34連隊第3大隊(大隊長代理 J・E・スミス大尉)を至急反転させて西を守り、主力の後退を掩護させる一方、第34連隊長代理(ワドリングトン中佐)に、撤退部隊の第2陣を指揮させて出発させた。しかし、既に大田市内には北朝鮮のゲリラ部隊が入り込んでおり、ワドリングトン中佐の部隊は第1トンネルまで行き着くことができず、車両を捨てて山中を踏破することになってしまった。また、後続の部隊は第1トンネルまでたどり着いたものの、やはりここでトンネルを占拠した北朝鮮軍に阻止された。また、ディーン少将の一行は、道を誤って、北朝鮮軍が進撃する錦山道に入ってしまったため、車両を捨てて山中に入るしかなくなった。ディーン少将は、重傷者とともに山中に潜伏したが、36日後に北朝鮮軍の捕虜となった。
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