2期目の大統領職と反乱
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「ジャン=ベルトラン・アリスティド」の記事における「2期目の大統領職と反乱」の解説
1996年の終わりにアリスティドはOPLから分かれて新党ラヴァラの家族(Fanmi Lavalas, FL)を結成した。上下院ともで多数を占めたOPLは後に略称はそのままで「闘う人民機構」(Organisation du Peuple en Lutte)に改称した。1997年4月の上院選挙は登録有権者の約5%のみの投票で、不正投票の主張で悩まされたプレヴァル政権は選挙結果の受入れを拒否した。 次の2000年3月の選挙も国会全体で同様のことが起こった。反アリスティド派の所有するラジオ局は投票率が約10%だと伝えた。選挙管理委員会と国際監視団は約60%と発表した。FLが大勝したが、開票する際に暫定選挙委員会(Conseil Electoral Provisoire, CEP)によって使用された方法は野党から拒絶され選挙の無効が要求された(その野党は「民主的結束」(Convergence Democratique, CD)として連合した)。 アリスティドは2000年11月の大統領選挙で91.8%の得票で当選した。殆どの反対派は公正な機会が得られないと主張してこの選挙をボイコットした。選挙後米州機構は選挙が不公平であり、票を数える方法論で失敗したという報告を提出した。アリスティドの支持者は、OAS 報告書がただ大統領の政策への敵意のみに基づいて米国により企図されたものだと非難した。また彼らは、何故あらかじめ開票の過程を意識していた組織が選挙結果が出るまで方法論に異議を唱えずに待ったのか疑問を呈した。国際組織の独立監視団(私設のボランティア組織)は選挙がスムーズに行われたと報告し、彼らは不正が行われなかったと証言した。しかし、西側の政府の大半が選挙にあからさまな不正があったと非難した。反応として「アリスティド政権が不正であり金が浪費されると恐れて」クリントン政権は米州開発銀行からハイチへの5億$の貸与を妨げるために欧州連合と共に働きかけた。ブッシュ政権は拒否権の行使という形でこれを実行した。 2001年2月7日アリスティドは2期目の大統領として宣誓した。同じ日CDはメトル・ジェラール・グルグを宣誓の上で「新暫定政府」の代表に就任させた。アリスティドはCEPの改革に合意したが、反対派の支持者を新体制に組込むことはしなかった(選挙無効の主張時に2人が自ら辞任している)。ジャン=マリ・シェルスタは2001年3月に新首相に就任した。CDはこれらを拒絶し、その対応として政権はグルグを逮捕しようとした。政治上の支配が不安定なのに併せ経済も不調だった。アリスティドは反対派と妥協を図り、選挙で不正があったと主張された上院議員(与党7人野党1人)が2001年6月に辞職したが、FLとCDの話合いは合意に至らなかった。2001年12月中旬にクーデターが試みられた。経済が落ち込み続けシェルスタは2002年1月に辞職した。3月15日アリスティドは後任の首相にイヴォン・ネプチューンを任命した。 反アリスティド派の反対により2003年後半に予定されていた選挙は実施されなかった。その結果ほとんどの議員の任期は1月に期限が切れ、アリスティドは布告による政権運営を強いられた。彼は6ヶ月以内の選挙を約束したが、反対派はアリスティドの辞任以外を拒絶した。 2004年アリスティドに批判的なジャーナリストは攻撃や脅迫を受けた。テロの風潮は2人のジャーナリストの殺害事件の刑罰の免除によって支えられた。アリスティドはテレビへの支配を広げたが、ラジオは最もポピュラーなニュースメディアであり続けた。また報道は暴力の犠牲者だった。国境なき記者団は2003年にジャーナリストに対して約30件の脅迫や攻撃を記録した(2004年には700件が報告されている)。 この年に状況は一層悪化した。アリスティドは反アリスティド派とそのメディアに対抗する手段として一部で「シメール」(怪物)として知られるギャング団の構成員の力に頼った。また彼の政権は反対派から「特殊部隊を持ち、秘密警察部隊はデュバリエ父子(1957年 - 1986年)の下のトントン・マクート、セドラ軍政(1991年 - 1994年)下のアタシェのように政権の汚い仕事(拷問と処刑)を担い、市民から強奪した。彼が過去に戦った独裁者のように元貧民街の聖職者アリスティドは抗議に対応して断固たる処置を取った」と評される。彼の退陣を求めるデモに対して数十人の人々がシメールにより殺傷されたとされる。 アミオ・メテイェ率いる「人食い軍」と呼ばれ恐れられた民兵組織は2001年12月にゴナイーヴでアリスティド支持を唱え反アリスティド派を虐殺し、2002年7月投獄されたが翌月に脱獄し反アリスティド派への襲撃を繰り返した後2003年9月自身も惨殺された。それ以降弟のビタ・メテイェは「ハイチ解放国民革命戦線(英語版、フランス語版)」を名乗り反アリスティドに転じた。 2004年1月に反アリスティド派支持者とアリスティド支持者の間の暴力が急激に拡大した。2004年2月5日にアリスティドに対する主な反乱の始まりとなった「革命再建抵抗戦線」と自称した反乱軍がハイチの4番目に大きい都市ゴナイーヴを支配下に治めた。2月22日までに元警察本部長で2000年10月のクーデター首謀者であったギ・フィリップ率いる反乱軍がハイチの2番目に大きい都市カパイシャンを占領した。ハイチは反乱軍に占拠された北と政府に維持された南とに実上分割された。反乱軍が使用した重火器 (M16、M60) その他の装備はドミニカ共和国経由で米国から提供されていたため、マイアミのアリスティドの弁護士は「軍事クーデター」だと非難した。 2月末までに反乱軍はポルトープランスまで数マイルにまで迫った。またそれまでにアリスティドが最低賃金を引上げたことへの反対からハイチの政治に介入し「民主主義プラットホーム」を組織していた米国籍のレバノン人企業主アンドレ・アパイドは平和的行動を装って挑発しアリスティッドへの非難を呼ぶことを画策した。
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