1934年の橋とは? わかりやすく解説

1934年の橋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 04:31 UTC 版)

治水橋」の記事における「1934年の橋」の解説

荒川現在の位置を通るようになったのは1926年大正15年5月17日のことである。明治時代から続いた河川改修一環で、直線化で取り残され旧川曲線部はびん沼(今のびん沼川)となり、新しい川には渡船場置かれ有料の賃渡船運行されたが1927年昭和2年)に県営化された。渡船場は「馬宮渡し」と呼ばれ治水橋とほぼ同じ場所に位置していた。治水橋開通により渡船場1934年昭和9年)に廃止された。 1927年昭和2年)の通常県会治水橋架橋可決され治水橋工事埼玉県事業主体となり、失業救済事業として1931年昭和6年12月着工され延べ5万余り作業員総工費346700円をかけて1934年昭和9年7月竣工した橋の設計埼玉県土木課、下部工中央土木上部工は桜田機械工業サクラダ)、橋面舗装日本ソリヂチットが請負った。また、長さ251.26メートル右岸側146.26メートル左岸側105.0メートル)、幅員7.5メートル取り付け道路合わせて整備れた。開通式はぬけるような快晴の下、同年7月23日11時に左岸河川敷設けられ会場挙行された。開通式は先ず神主神事玉串礼拝執り行われた後、県知事式辞および内務省東京土木出張所長や県会副議長高橋浦和市長や間宮村長、そして本橋架橋運動尽力した功労者である埼玉県会議員斎藤祐美の祝辞が行われ、後に神官と共に県知事初め来賓500名と付近に所在する第一第二馬宮尋常高等小学校(現、さいたま市立馬宮東小学校およびさいたま市立馬宮西小学校)の国旗を手にした児童600名による渡り初めが、青空合図花火信号)が鳴り響く中、左岸から右岸向けて行われた他、河川敷会場では関係市町村代表者主催する祝宴盛大に開催され花火打ち上げられたり山車練り歩き屋台等が出店するなどの余興催されるなど夜まで大変ないだったという。また、荒川挟み折り返し運転していた浦和川越間を運行する路線バス同日14時より全通した全長628.18メートル全幅員6.01メートル有効幅員5.5メートル設計荷重道路構造令第二種荷重(後、耐荷荷重20トン)。高水敷区間ゲルバー鋼鈑で、中間の水路掛かる区間が旧上江橋似た1スパンの垂直材のある最大支間60メートルの曲弦ワーレン構橋構造を持つ鋼橋であった支間割は左岸側から23.16 m+26.67 m ×11+23.36 m+(60.0 m)+23.36 m+26.67 m ×7+17.74 mの計23連である。横断勾配は2パーセント縦断勾配最大0.44パーセント1 / 227)であり、トラス支承頂点全体的に非常に緩やかな放物線状反っている。下部工橋脚)も外見が旧上江橋のものと酷似する橋脚基礎鋼鈑箇所杭基礎トラス箇所井筒基礎使われている。床版鉄筋コンクリート製でトラス厚さ15糎、鋼鈑厚さ14糎で厚さ3糎の瀝青乳剤舗装施してある。高欄および親柱付近に桜草自生地であった天然記念物の錦乃原があったことなどから周辺との調和配慮しつつ、経済的かつ優美なるものを採用し親柱人造石使用して電飾設けるなど美観にも配慮した荒川中流には広い河川敷がとってあるが、何年かごとの増水でこれが一面水浸しになる。治水橋付近では川の左岸が広い。そこで、いくつかの場所で左岸に元の堤防から直角に、川に向けて突き出た横堤作り、それによって河川敷にあふれ出た水勢弱めることにした。治水橋箇所では馬宮第一横堤1929年昭和4年11月13日着工し工事並行して工事進み1934年昭和9年3月31日完成した治水橋左岸でその横堤接続し取り付け道路横堤天端を通る。 その後交通量急増に伴い歩行者自転車危険に晒されるようになったため、1974年昭和49年)に総工費2億1000万円を投じて上流側長633.7メートル幅員2.25メートル歩道専用側道橋である「治水橋歩道橋」が鋼床版桁橋として架橋され、歩行者・自転車はここを通るようになった。 この初代の橋1993年平成5年)に新しができたときに取り壊されたが、びん沼川高架橋南端そばに、トラス構成する下弦材と垂直材の一部治水橋メモリアル・モニュメントとして、齊藤治水翁彰功碑の脇に保存されている。また、横堤上の初代の橋取り付け道路廃道として残されている。なお齊藤治水翁彰功碑は元々は1951年昭和26年12月治水橋の西詰に建立されていたが、びん沼川高架橋整備の際に1995年平成7年)に県道通行車両の目につきやすい様、現在の場所に移設され、その彰功碑移設経緯記した石碑設立された。解体横河ブリッジ担当しトラッククレーンによる一括撤去工法用いて行われた橋の名称は、右岸馬宮村飯田新田現在のさいたま市西区飯田新田)で生まれ荒川治水に功があった埼玉県会議員斎藤祐美の号「治水」から付けられた。この地点での架橋県議選での斎藤公約一つでもあった。

※この「1934年の橋」の解説は、「治水橋」の解説の一部です。
「1934年の橋」を含む「治水橋」の記事については、「治水橋」の概要を参照ください。

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