1934年の橋
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荒川が現在の位置を通るようになったのは1926年(大正15年)5月17日のことである。明治時代から続いた河川改修の一環で、直線化で取り残された旧川の曲線部はびん沼(今のびん沼川)となり、新しい川には渡船場が置かれ有料の賃渡船が運行されたが1927年(昭和2年)に県営化された。渡船場は「馬宮の渡し」と呼ばれ、治水橋とほぼ同じ場所に位置していた。治水橋の開通により渡船場は1934年(昭和9年)に廃止された。 1927年(昭和2年)の通常県会で治水橋の架橋が可決され、治水橋の工事は埼玉県が事業主体となり、失業救済事業として1931年(昭和6年)12月に着工され、延べ5万人余りの作業員と総工費34万6700円をかけて1934年(昭和9年)7月に竣工した。橋の設計は埼玉県土木課、下部工は中央土木、上部工は桜田機械工業(サクラダ)、橋面舗装は日本ソリヂチットが請負った。また、長さ251.26メートル(右岸側146.26メートル、左岸側105.0メートル)、幅員7.5メートルの取り付け道路も合わせて整備れた。開通式はぬけるような快晴の下、同年7月23日の11時に左岸河川敷に設けられた会場で挙行された。開通式は先ず神主の神事や玉串礼拝が執り行われた後、県知事の式辞および内務省東京土木出張所長や県会副議長や高橋浦和市長や間宮村長、そして本橋の架橋運動に尽力した功労者である埼玉県会議員斎藤祐美の祝辞が行われ、後に神官と共に県知事を初め来賓500名と橋の付近に所在する第一・第二馬宮尋常高等小学校(現、さいたま市立馬宮東小学校およびさいたま市立馬宮西小学校)の国旗を手にした児童600名による渡り初めが、青空に合図花火(信号雷)が鳴り響く中、左岸から右岸に向けて行われた他、河川敷の会場では関係市町村の代表者が主催する祝宴が盛大に開催され、花火が打ち上げられたり山車が練り歩き、屋台等が出店するなどの余興が催されるなど夜まで大変な賑いだったという。また、荒川を挟み折り返し運転していた浦和・川越間を運行する路線バスも同日の14時より全通した。 全長628.18メートル、全幅員6.01メートル、有効幅員5.5メートル、設計荷重は道路構造令第二種荷重(後、耐荷荷重20トン)。高水敷の区間はゲルバー式鋼鈑桁で、中間の低水路に掛かる区間が旧上江橋に似た1スパンの垂直材のある最大支間長60メートルの曲弦ワーレン構橋構造を持つ鋼橋であった。支間割は左岸側から23.16 m+26.67 m ×11+23.36 m+(60.0 m)+23.36 m+26.67 m ×7+17.74 mの計23連である。横断勾配は2パーセント、縦断勾配は最大0.44パーセント(1 / 227)であり、トラス桁の支承を頂点に全体的に非常に緩やかな放物線状に反っている。下部工(橋脚)も外見が旧上江橋のものと酷似する。橋脚の基礎は鋼鈑桁の箇所は杭基礎、トラス桁の箇所は井筒基礎が使われている。床版は鉄筋コンクリート製でトラス桁は厚さ15糎、鋼鈑桁は厚さ14糎で厚さ3糎の瀝青乳剤舗装を施してある。高欄および親柱は付近に桜草の自生地であった天然記念物の錦乃原があったことなどから周辺との調和を配慮しつつ、経済的かつ優美なるものを採用し、親柱は人造石を使用して電飾を設けるなど美観にも配慮した。 荒川中流には広い河川敷がとってあるが、何年かごとの増水でこれが一面水浸しになる。治水橋付近では川の左岸が広い。そこで、いくつかの場所で左岸に元の堤防から直角に、川に向けて突き出た横堤を作り、それによって河川敷にあふれ出た水勢を弱めることにした。治水橋の箇所では馬宮第一横堤が1929年(昭和4年)11月13日に着工し、橋の工事と並行して工事が進み、1934年(昭和9年)3月31日に完成した。治水橋は左岸でその横堤に接続し、取り付け道路が横堤の天端を通る。 その後の交通量の急増に伴い歩行者や自転車が危険に晒されるようになったため、1974年(昭和49年)に総工費2億1000万円を投じて上流側に橋長633.7メートル、幅員2.25メートルの歩道専用の側道橋である「治水橋歩道橋」が鋼床版鈑桁橋として架橋され、歩行者・自転車はここを通るようになった。 この初代の橋は1993年(平成5年)に新しい橋ができたときに取り壊されたが、びん沼川高架橋の南端そばに、トラスを構成する下弦材と垂直材の一部が治水橋メモリアル・モニュメントとして、齊藤治水翁彰功碑の脇に保存されている。また、横堤上の初代の橋の取り付け道路も廃道として残されている。なお齊藤治水翁彰功碑は元々は1951年(昭和26年)12月に治水橋の西詰に建立されていたが、びん沼川高架橋の整備の際に1995年(平成7年)に県道の通行車両の目につきやすい様、現在の場所に移設され、その彰功碑移設の経緯を記した石碑が設立された。橋の解体は横河ブリッジが担当し、トラッククレーンによる一括撤去工法を用いて行われた。橋の名称は、橋の右岸の馬宮村飯田新田(現在のさいたま市西区飯田新田)で生まれ、荒川の治水に功があった埼玉県会議員斎藤祐美の号「治水」から付けられた。この地点での架橋は県議選での斎藤の公約の一つでもあった。
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