1934年・復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 00:31 UTC 版)
「ルドルフ・カラツィオラ」の記事における「1934年・復帰」の解説
「1934年のグランプリ・シーズン」も参照 5月末、アヴスレンネンが開催され、このレースで復帰するため、メルセデスチームはこの年から施行された「750㎏フォーミュラ」規定に合わせて開発した新型車「W25」を持ち込み、練習走行を始めた。これを利用してカラツィオラが復帰可能か判断するためのテストが行われ、ここでカラツィオラはすでにレギュラーに選ばれていたマンフレート・フォン・ブラウヒッチュとルイジ・ファジオーリのタイムを上回ったことで、再起用が決定した。これにカラツィオラは大いに安堵することとなった。 アヴスレンネンには結局チームが参戦を取りやめ、翌週、6月初めのアイフェルレンネンに臨むことになるが、実質的に2つしかコーナーが存在しないアヴスならともかく、172のコーナーを持つニュルブルクリンクで500㎞のレースを走り切ることは困難と判断し、カラツィオラはこのレースへの参加を辞退した。カラツィオラの復帰レースは7月のフランスグランプリ(英語版)になったが、このレースでは車のほうがトラブルを起こしてリタイアとなる。ある意味でカラツィオラにとっては幸いなことに、完成して間もないW25は初期トラブルが多く、レースの全距離を走り切る機会はなかなか訪れなかった。8月にはクラウゼンパス・ヒルクライム(ドイツ語版)で優勝するが、これは22㎞の短距離で競われたものであり、長距離のレースを走り切れるのか、というカラツィオラ本人と周囲が抱いていた疑問はぬぐえないままとなる。 9月のイタリアグランプリ(英語版)では、足の激痛に耐えつつ60周を走って首位を奪うが、痛みに耐えきれずファジオーリに車を譲り、結果としてファジオーリがチェッカーまで車を運び、116周(約500㎞)のレースを制して優勝を記録した。自力で完走できなかったことはカラツィオラを落胆させたが、同月のスペイングランプリ(英語版)(約519㎞)では、チームオーダーを無視したファジオーリに抜かれて2位になるという出来事はあったものの、ようやく完走することに成功した。
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