飛行成功後の苦悩と闘いとは? わかりやすく解説

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飛行成功後の苦悩と闘い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 02:39 UTC 版)

ライト兄弟」の記事における「飛行成功後の苦悩と闘い」の解説

空気よりも重い機械用いた飛行実用技術の開発者」と裁判所にも認められライト兄弟待ち構えていたものは、必ずしも栄光ではなかった。 ライト兄弟成功飛行技術に関する特許取得は、飛行機兵器として注目されていたこともあり、争い妬み対象にもなった。特に兄弟あからさまな敵意を向ける2人人物がいた。その1人はチャールズ・ウォルコットである。有人動力飛行失敗したラングレーの後を継いでスミソニアン協会会長地位就いた彼は、民間人であるライト兄弟偉業決し認めずスミソニアン博物館航空史に「ライトフライヤー号」を一切展示しなかった。もう1人グレン・カーチスである。腕の良い飛行家だった彼は、航空会社設立し何かとライト兄弟特許に関して係争した。しかし、冒頭裁判所の判断もあり、ことごとく敗訴していた。 カーチスライト兄弟パイオニアたる地位否定すれば特許について有利な立場になれると考えていた。カーチスウォルコット手を結び資金援助得て1914年5月6月ラングレーエアロドローム再飛行実験行ない成功した。ところが、実はエアロドロームにはカーチスの手により35箇所もの改造加えられており、もはや全くの別物になっていた。実験結果を受け、ウォルコットスミソニアン協会年次報告に「初め飛べ飛行機作ったのはラングレー」との声明発表丁寧に1903年当時形状戻したエアロドロームを、人間乗せて飛行可能な世界初飛行機表示してワシントン国立博物館展示した。すでに兄を亡くしていた弟オーヴィル抗議した協会一切無視それどころか年報告執拗なまでに声明文繰り返し掲載した。そのため、一般に世界初飛行成功したのはラングレーだと思い込む者が増えたこのような不毛な争い最中に、飛行技術急速に進歩していき、ライト兄弟の持つ特許飛行技術陳腐化ていった一例として、ロール制御の手としてのたわみ翼は、補助翼というより完成度の高いものに進歩していた。1908年にはフランスシャンパーニュで、世界最初飛行大会開催された。この大会でアンリ・ファルマン飛行時間ユベール・ラタムが高度、ルイ・ブレリオ速度各部門優勝者となった今日飛行機形態完成したのは、彼らの機体であった)。しかしライト兄弟優勝はおろか入賞さえ果たせない惨めな成績終わった。そしてグレン・カーチスもこの大会出場し優勝こそ逃すめざましい成績示した。この大会は、もはやライト兄弟が、凡百飛行家ふたりでしか無い事を示したライト兄弟機体には、遅れて登場した他の飛行機比べて大きな欠点があった。操縦応答性優先し安定性極めて低いこと。離陸の際にレールを敷く必要があること。プロペラチェーン駆動であるため、エンジン出力向上に限界があったこと。1910年ライト兄弟ライトB型完成させる。これは水平尾翼機体後部移して安定性高め車輪装備しレールを敷く必要を無くしたものであったが、チェーン駆動だけは相変わらずであった1911年9月17日、カルブレイス・ペリー・ロジャーズという飛行家が、このライトB型小型化したEX型を駆って、初のアメリカ大陸横断飛行挑んだ。しかし何度も墜落繰り返し目的地にたどり着いたのは11月5日部品交換修理繰り返した結果出発時と同じ部品尾翼主翼支え支柱のみで、出発時と同じ機体とはとても言えない内容であったそんな中失意法廷闘争疲労もあり、ウィルバー1912年腸チフス死去したウィルバーの死の4年後、オーヴィル飛行機製造から身を引く。 しかし、ライト兄弟世界最初有人動力飛行行ったことを、高く評価する者も存在した。陽の目を見ることなくマサチューセッツ工科大学倉庫保管されていたライトフライヤー号思わぬ申し出届いたロンドン科学博物館展示したいオーヴィル希望寄せてきた。スミソニアン協会名誉総裁送ったエアロドローム再飛行実験対す調査要請書簡無視されたのを最後見定めオーヴィルロンドンからの申し入れ受諾1928年ライトフライヤー号イギリス渡ったイギリス旅行に来たアメリカ人は「何故ライトフライヤー号がこんな場にあるのか?」と驚いた。それはやがて世論となり、スミソニアン協会いつまで無視する訳にはいかなくなってきた。ウォルコット死後1928年会長職を継いでいたチャールズ・アボットオーヴィル面談しライトフライヤー号アメリカ合衆国に戻すよう要請した。それに対すオーヴィル条件は、ただ「歴史正しく修正する」ことのみであったアボットは、玉虫色妥協点見出そうとしたが、オーヴィル決して譲らず、1942年ついにスミソニアン協会声明発表ライト兄弟偉業認め1914年実験否定し最後部分では兄弟陳謝した。これを受け入れオーヴィルライトフライヤー号アメリカに戻すことに合意したその後第二次世界大戦などの混乱もあり、ライトフライヤー号アメリカ戻ってワシントン国立博物館国立航空宇宙博物館)に展示されたのは初飛行成功からちょう45年経った1948年12月17日であった盛大な展示除幕式が行われたが、オーヴィルはすでに同年1月30日76歳で死去していたため参加することはできなかった。 晩年オーヴィルには、飛行機発明したことを後悔する旨の言動がある。1942年オーヴィルヘンリー・フォードに対して自分動力飛行機を発明したことを悔いる内容の手紙を送り1943年アメリカ特許設立150周年記念行事参加した際には、最近100年間の十大発明は何かと問われ、あえて飛行機をその中から除外している。第二次世界大戦関し飛行機もたらした破壊残念に思う述べた

※この「飛行成功後の苦悩と闘い」の解説は、「ライト兄弟」の解説の一部です。
「飛行成功後の苦悩と闘い」を含む「ライト兄弟」の記事については、「ライト兄弟」の概要を参照ください。

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