韓国の教科書における漢四郡の変遷
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「漢四郡」の記事における「韓国の教科書における漢四郡の変遷」の解説
漢四郡に関する記述は、従来は楽浪文化とともに記述されてきたが、徐々に減少していき、特に1970年半ば以降極めて少なくなり、郡名や位置図も削除されていく。 この楽浪(平壌一体)を中心にして在来文化と漢文化が交流していわゆる楽浪文化(楽浪遺跡)が発達して、この文化がわが国の南北諸国に与えた影響も少なくない。 — 震檀学会、国史教本「附」、1946年 1946年震檀学会『国史教本』では本文で触れずに、「附」で記述する。やがて漢四郡は本文に記述され、漢四郡の位置図が掲載され、その変遷、楽浪文化、朝鮮民族への影響が記述される。 楽浪は後の帯方とともに、東方世界における文化交流の大きな中心点となった。 — 金庠基、高等国史、1957年 漢四郡と帯方郡の位置図が掲載され、出土した銘文塼・遺物などが写真付きで紹介され、漢四郡との交流を通して、朝鮮民族は漢の高度な文化を取り入れて、自らの文化を形成したと高く評価される。 わが民族をして異民族支配を強いさせたという点で残念な事実であるが、その反面そこから得た影響も小さくない。その影響の第一は政治的に土着種族の台頭をもたらした点である。外民族の支配は土着民を自覚させ、その統治から抜け出すために、部族国家へと発展させ、さらに古代国家形成の原動力となった。また発達した漢の政治体制は、いまだ未開な状態にあったわが国の諸民族の政治的発達に大きな影響を与えた。二番は社会的にも開発された点である。…第三は、文化上において大きな影響を与えた点である。…このように燦爛な楽浪文化は漢人による漢文化にすぎないが、これは当然にわが民族に影響を与え、わが国の文化発達に大きな影響を与えた。 — 歴史教育研究会、高等国史、1967年 この場合看過できないのは、漢四郡によって朝鮮民族と国土の自覚を覚醒したという指摘である。それは、1947年崔南善中学『国史』のようにはやくから明示されてきた。 支那本国の進歩な文物と朝鮮本土の豊富な物質が合わさって燦々たる文化を形成した。 — 崔南善、中等国史、1947年 漢四郡が、朝鮮民族の部族国家形成・古代国家形成の原動力となったと評価されるが、漢の朝鮮支配という異民族による朝鮮民族支配とそれに抵抗する観点がみられる。 中国の進歩した文化がそのまま入り、楽浪文化が形成された/燦爛な楽浪文化はわが国だけでなく、倭人にも大きな影響を与えた/漢字文化や政治制度、先進文化が国家形成段階突入へ寄与、ただし、純朴な風俗などが失われ、事大思想が芽生えるようになった。 — 曺佐鎬、中等国史、1959年 郡県に対抗する朝鮮人/中国の文化が導入され、朝鮮本土の豊富な物質と融合して燦々たる文化が形成/この時わが国の文化は中国人の文化を受け入れてわが国の文化を形成したが、その反面、次第に固有の美しい風俗が失われた。 — 崔南善、国史、1962年 漢四郡による朝鮮支配や楽浪文化など漢文化によって、朝鮮民族固有の純朴な風俗が損なわれたという指摘が登場し、漢四郡による朝鮮支配と漢文化の流入に対する批判がでてくる。 楽浪文化=漢文化/これによって文化発展は阻害された/郡県の設置は社会に大きな影響を与えた/郡県制度の移植/漢の優秀な鉄器文化が流入/経済にも大きな変化を与えた/困窮生活を強いた。 — 高等国史、1969年 楽浪文化/これはわが土着民とは関係ない中国人の文化である/漢郡県の設置は、韓半島の部族社会に政治・経済・社会面に大きな影響を与えた/漢四郡を通して高度で発達した鉄器文化が伝播し、農具などが発達して、生産力が増加して安定した鉄器文化となった。これとあわせて中国の政治制度が輸入され、土着民間に刺激を与え、従前の社会科学組織に対する改変を追求した。 — 高等国史、1970年 楽浪文化/漢文化にすぎず、われわれの文化ではない/他民族による支配は遺憾だが、漢郡県支配が与えた影響は少なくない/漢の文化は高度な文化であったため、漢人の統治によって朝鮮の土着社会に大きな影響を与える/1文化上の意義/2社会生活の発展/3政治上の変化/土着民の自覚をうながし、その支配から脱するための民族運動を誘発/独自的な政治権力の成長/鉄器文化によって部族国家が台頭/このように漢の郡県支配は文化・社会・政治など各方面にわたって非常に大きな影響をあたえ、わが社会を大きく発展させたのである。 — 邊太燮、高等国史、1973年 楽浪文化を紹介するが、あくまでも漢文化であり、朝鮮民族の文化と区別して、漢文化によって朝鮮民族の文化発展が阻害されたという指摘がみえてくる。このような視覚は、1970年前後から登場して、漢四郡や楽浪文化に対する否定的な記述がみられてくる。それは、日韓併合と同様に漢四郡や楽浪文化を朝鮮民族の歴史と文化として位置付けたくないことと関連する。そして1975年文教部『中学国史』以降、従来は数ページにわたり記述されていた漢四郡や楽浪文化の記述は減少していく。 民族の粘り強い抵抗によって漢四郡は満州に追い出された/楽浪郡が長い間朝鮮民族を経済的に搾取し、政治的にも部族間の統一を妨害したため、新しい国家は生まれなかった/楽浪の勢力の及ばない地域にのみ、鉄器文化を基盤とする新しい部族国家が登場。 — 文教部、中学国史、1975年 漢四郡の位置図が削除され、漢四郡や楽浪文化に関する記述は半ページ程度になる。 漢四郡は交通路に設置/郡県に対して土着勢力に我慢できず、臨屯郡と真番郡は廃止、玄菟郡は遼東方面に撤退/ただ楽浪郡と帯方郡は長く存続した。 — 文教部、中学国史、1975年 「漢四郡の変遷」という項目はあるが、従来では記述されていた漢四郡の朝鮮民族に与えた影響や朝鮮史上の意味は全く記述されない。 その後、漢は古朝鮮の一部地域に勢力を伸ばし、朝鮮民族は継続して抗争し、それを追い出すことに成功した。 — 国史編纂委員会、中学国史、1982年 本文でわずか3行になり、従来の教科書の記述や位置図に示されてきた楽浪郡、臨屯郡、真番郡、玄菟郡の郡名もみられなくなり、漢四郡はどこに置かれていたかも全く言及されない。このような漢四郡の矮小化は、漢四郡が設置されていた時代の東夷諸族の分布図に、本来はそこに存在していたはずの漢四郡が描かれていないことに端的に示され、1980年代から漢四郡に関する記述は極めて少なくなってくる。 漢は古朝鮮の一部地域に郡県を設置したが、わが民族の反撃を受け、後退した。 — 国史編纂委員会、中学国史、1996年 古朝鮮が滅亡すると、漢は古朝鮮の一部地域に郡県を設置して、支配したが、土着民の強力な抵抗にあった。そのため、その勢力はしだいに弱化していき、ついに高句麗の攻撃によって消滅した(313年)。 — 国史編纂委員会、高等国史、1996年 1990年代以降も漢四郡に関する記述は極めて少ない。漢四郡に関する記述はわずか3行しかなく、郡名すら記述されず、「漢の郡県」項目すら削除され、朝鮮史や朝鮮民族に与えた影響も記述されない。
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