韓国の教科書における箕子朝鮮の変遷
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「箕子朝鮮」の記事における「韓国の教科書における箕子朝鮮の変遷」の解説
檀君王倹が平壌を中心に初めて国家を立てた(前2333年)=前朝鮮。 — 震檀学会、国史教本、1946年 震檀学会『国史教本』は、紀元前2333年に檀君によって建国されたとして、檀君の建国した朝鮮を「前朝鮮」として、後の「後朝鮮」と区別する。これは『新増東国輿地勝覧』巻51・平壌条の檀君の建国した朝鮮を「前朝鮮」、箕子の建国した朝鮮を「後朝鮮」とするのに由来する。しかし、震檀学会『国史教本』は、「後朝鮮」の記述は認められるが、建国者の箕子の名前はなく、箕子が中国系であることと無関係ではない。それゆえ『国史』において箕子について論及しない、という選択肢も存在したが、1940年代-1950年代の『国史』では、箕子について過小評価して論及する。 漢族は衛満の侵入から楽浪の滅亡まで、500余年もの間、朝鮮半島の一角を占め、わが民族と互いに交戦したので、楽浪の漢人たちは平壌一帯の占領を合理化するために、箕子が朝鮮半島を開拓した、と創作した。 — 申奭鎬、中等国史、1948年 箕子朝鮮は先秦文献にみえず、漢人の政略的な意図から作られたものか、あるいは中国の影響を受けた「後朝鮮」系統の人々が箕子をその祖先としたのではないか。 — 金庠基、国史、1957年 伝説によれば殷の箕子が朝鮮へ東来.....信じがたい。漢民族の朝鮮支配のために造作されたもの。 — 曺佐鎬、中等国史、1959年 1940年代から1950年代には、箕子東来説が後世、漢人によって造作されたとして、積極的に史実性が否定される。それは、史料批判からされたが、『史記』巻38宋微子世家に「武王既克殷、訪問箕子、於是武王乃封箕子於朝鮮…」とあり、箕子が朝鮮王として冊封されたという記事が現実に存在する以上、それをどう解釈すべきか、という教科書執筆者の関心とも関わっている。ところが1960年代半ばから、箕子東来は最初から史実性を認めないという解釈から、教科書にはみられなくなる。わずかに、1960年代半ば以降の教科書では、1982年国史編纂委員会『国史』が註において、 古朝鮮の発展と関連して箕子朝鮮に関する記録もある。中国の「史記」、「漢書」地理志、そして「三国遺事」には中国の箕子が朝鮮王となり冊封され東来したとするが、箕子東来説は認定できない。 — 国史編纂委員会、国史、1982年 帝王韻記」には箕子朝鮮を後朝鮮とし、準王の時に滅亡したと記録している。 — 国史編纂委員会、国史、1982年 それまで論じられてきた箕子東来説の造作に関する記述もなくなり、箕子は1960年代半ばから教科書にはみられなくなる。このように檀君朝鮮についてはほぼ一貫して重視されるが、箕子朝鮮は当初からほぼ一貫して軽視される。また、箕子東来説は1940年代から1950年代では積極的に否定するが、やがてみられなくなる。このようにして、教科書におけるおおよそ中国系に関する記述は徐々に減少していく。
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