克殷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:31 UTC 版)
詳細は「殷周革命」を参照 季歴の息子姫昌(後の文王)が王位を継ぐと、古公亶父の期待通り周国を繁栄させ、ついには宗主国の殷から「西伯」の地位を賜るにいたる。姫昌と同時代の殷の紂王は暴君だったため、諸侯は姫昌に頼って革命を期待したが、姫昌はあくまで紂王の臣下であり続けた。 姫昌の死後、後を継いだ姫発(武王)は、周公旦・太公望・召公奭ら名臣の補佐のもと、亡き父姫昌を名目上の主導者として、前1046年に革命戦争(牧野の戦い)を起こす。武王は殷の紂王に打ち克ち(克殷)、周王朝を創始した。
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