武王克殷とは? わかりやすく解説

武王克殷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/08 16:28 UTC 版)

牧野の戦い

戦争殷周革命
年月日紀元前1027年又は紀元前1046年[1](周の武王11年)
場所牧野
結果の決定的勝利
交戦勢力
(商)
指導者・指揮官
帝辛 姫発
姫旦
呂尚
姫奭
戦力
700,000(諸説あり) 400,000(諸説あり)
損害
不明 不明

武王克殷(ぶおうこくいん)は、『説苑』の武王が殷の帝辛を討つ場面の冒頭の4字、およびその場面[2]。本文では後者について説明する。

1度目の挙兵

姫発(後の武王)の父の姫昌は、諸侯に幾度となく放伐を薦められたが、主君である帝辛を討つのは道に反するということで、これを退けた。

姫昌亡き後を継いだ姫発は、太公望と呼ばれた呂尚の助けも借りつつ、父同様に善政を敷き、諸侯は殷の帝辛の下を離れ、周の姫発の下に集った。そして諸侯に促され、姫発は帝辛を討つことを決意した。

姫発は徳があることで知られていた父の木主(位牌)を掲げて挙兵した。父の位牌とともに盟津まで進軍した。この時、幾つもの瑞兆が現れ、800にもおよぶ諸侯が参加した。しかしこの時、姫発は天の声を聞き時期尚早と考え、撤兵した。

2度目の挙兵

兵を引いて2年の後、帝辛の苛政は一層激しさを増し、再び挙兵した。諸侯はこれに応じ、戦車300乗、士官3000人、武装兵45000人が集まった。牧野において、殷兵70万[注釈 1]と対峙したが、殷の奴隷兵は帝辛に反旗を翻し、姫発はこの戦いに勝利した。

一方で牧野の戦いに敗れた帝辛は、首都朝歌(現在の殷墟)に退き、鹿台という高塔に登り、火を放って焼身自殺した。これにより、殷王朝は滅びたとされる。帝辛の死後、朝歌に入城した姫発は、帝辛の焼死体を探し出し、矢を打ち込んで、首をで落とし、殷放伐の完了を宣言した。これが紀元前1027年[3][4]のことであったとされる。

姫昌の考えと同じく、帝辛を討たずに世を治まることを姫発に進言していた伯夷・叔斉は、これに反発して周を去り、周の作物は食べられないと言って首陽山に籠もり、草木を食べていたがやがて餓死したとされる。司馬遷はこれについて、悪人とされた盜蹠も比較対象として、「天道是邪非邪」(善人が報われるのは本当だろうか)と述べている[5]

周の創始

周を建てるにあたり、帝辛の叔父の箕子朝鮮に封じ、帝辛の異母兄の微子啓に封じ、殷の祭祀が絶えないようにした。また、神農の子孫[注釈 2]黄帝の子孫[注釈 3]を祝、の子孫を薊、の子孫をの子孫[注釈 4]に封じ、古代の王たちの祭祀も継承するようにした。

また、国師・軍師の呂尚(太公望)を、弟の周公旦召公奭管叔鮮蔡叔度に封じた。

太伯の弟にあたる虞仲の曾孫である周章中国語版[注釈 5]、さらにその弟の虞仲を北方のに封じた。

また、鎬京に都し、武器を捨てることで、今後は平和を保つという意思を示した。これにより、周王朝1000年の基礎が築かれた。

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ 17万とも。
  2. ^ 詳しくは神農氏を参照。
  3. ^ 但し、は全て黄帝の子孫にあたる。
  4. ^ つまり夏王朝の子孫。
  5. ^ 太伯に子は無く、ここに記されるのは全て虞仲の子孫である。また、彼らは姫発の再従兄弟の子にあたる。

出典

  1. ^ 夏商周年表プロジェクトの結果から
  2. ^ 『説苑・貴徳 三』
    武王克殷,召太公而問曰:「将奈其士衆何?」太公対曰:「臣聞愛其人者,兼屋上之烏;憎其人者,悪其餘胥;咸劉厥敵,使靡有餘,何如?」王曰:「不可。」太公出,邵公入,王曰:「為之奈何?」邵公對曰:「有罪者殺之,無罪者活之,何如?」王曰:「不可。」邵公出,周公入,王曰:「為之奈何?」周公曰:「使各居其宅,田其田,無変旧新,唯仁是親,百姓有過,在予一人!」武王曰:「広大乎,平天下矣。凡所以貴士君子者,以其仁而有徳也!」
    (武王が殷を滅ぼし、太公を召して問うて言った:「殷の多くの士はどうすべきか?」太公は答えて言った:「私の聞く所では『ある人を愛する者は、その人の家の屋上の烏までも可愛く思えてくる。ある人を憎む者は、その家の周りの柵まで憎たらしく思えてくる。』と言います。だから全部ひとまとめに敵を殺して一人も残さない。これでいかがですか?」王は言った「それはいけない。」太公が出て、邵公が入った。王が言った:「どうすべきか?」邵公は答えて言った:「罪ある者は殺し、罪なき者は活かす。これでいかがですか?」王は言った:「それはいけない。」邵公が出て、周公が入った。王が言った:「どうすべきか?」周公は言った:「それぞれ自分の家に帰らせ、それぞれの田を耕作させ、旧来からの民も、新しくわが民となった者も平等に扱い、ただ仁をもって親しむ。殷の士人たちに過失があったとすれば、その責任は殷王一人にある!」武王は言った:「なんと広大なことか。それでこそ天下を平らげられる。凡そ士・君子を貴ぶ人は、心に仁をもって徳を行うものだ!」)
  3. ^ 『竹書紀年・帝辛』『竹書紀年・周武王』
  4. ^ 夏商周年表プロジェクトに拠れば紀元前1046年
  5. ^ 『史記 巻六十一 伯夷列傳 第一 5』

武王克殷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 00:33 UTC 版)

殷周革命」の記事における「武王克殷」の解説

詳細は「武王克殷」を参照 姫昌次男姫発は、父の遺志継ぎ、殷打倒目指した。呂尚助け借りつつ善政敷き遂に挙兵した。この時瑞兆幾度も現れ800諸侯集まったとされるが、天の声により兵を退けた。この原因について諸説ある。 詳細は「牧野の戦い」を参照 その2年の後、再び姫発兵を挙げた。この時は戦車300乗、士官3000人、武装兵45000人が集まり牧野において、殷兵70万と対峙したが、殷の諸侯軍奴隷兵に戦意無く裏切り逃走が相次ぎ姫発勝利した首都朝歌城にて帝辛鹿台に登って焼身自殺し、殷の放伐はここに完了した詳細は「武王 (周)#周王朝創立後」を参照 こうして殷を滅ぼした姫発は父・姫昌文王追号し、歴代政権神農氏黄帝有熊氏・夏・殷)の子孫をそれぞれ封じた。そして大功のあった呂尚始め家臣親族各地封じ諸侯国とした。その後、周は諸侯らに支えられ東周滅亡まで数えると歴代最長王朝となった

※この「武王克殷」の解説は、「殷周革命」の解説の一部です。
「武王克殷」を含む「殷周革命」の記事については、「殷周革命」の概要を参照ください。

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