武王時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 20:24 UTC 版)
武王の時代になると、張儀や魏章が王と不仲になって秦を去った。蜀で謀反が起きると、武王の命令でこれを鎮圧した。その功績で左丞相に任命された。 紀元前308年、武王は、甘茂に、「三川までの道を自由に通行できるようにして、周を脅かしたい」と言った。そこで甘茂は、「私が魏に行って、秦と一緒に韓を討つ約束をさせましょう」と言い、向寿と共に魏に行くことになった。その後、甘茂の意向で向寿が先に帰国し、「魏は言う通りになりましたが、韓を討ちませぬように」との甘茂の伝言を武王に伝えた。武王は、魏の近くの息壌まで出向いて、帰国した甘茂に伝言の意味を尋ねた。 甘茂は、「韓の宜陽は大県です。攻めるのは容易ではありません。かつて、曾参と同姓同名の男が人を殺し、それを誤解した人が、曾参の母に、曾参が人を殺したと知らせました。彼女は信じませんでした。しかし、同じことをさらに2人も知らせると、とうとう彼女は噂を信じて逃げてしまいました。曾参ほどの賢人に、母の息子に対する厚い信頼があっても、悪い噂を立てる人が3人にもなると母でさえ息子を信じられなくなります。私の賢明さは曾参に及びませんし、王の私に対するご信頼も曾参の母ほどではないでしょう。しかも私の悪い噂を立てる者は3人だけではありません。私は王に見捨てられる事が心配なのです。私は他国の出身であり、ご一族の樗里子や公孫奭などが韓に肩入れすると、王は魏を欺き、私は韓に恨まれるでしょう」と言った。 そこで、武王は、甘茂を信じることを誓い、彼に宜陽を討たせた。しかし、甘茂は、5カ月経っても宜陽を攻略できなかった。 はたして樗里子と公孫奭が甘茂を非難したので、武王は、甘茂を呼び戻そうとした。甘茂は「息壌はそこにあります」と言った。武王は「そうであった」と言い、全軍を動員して甘茂に再度攻撃を命じた。ついに甘茂は、6万を斬り、宜陽を落とした。韓は宰相の公仲侈を遣わし、秦と和睦した。
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