経歴・政策
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1955年8月24日にアーカンソー州ホープという小さなコミュニティーで誕生する。父のドーシー・ワイルズ・ハッカビーは消防士で母のメイ・(エルダー)ハッカビーはガス会社で働いていた。また彼には現在小学校の教師をしているパトリシア(パット)・ハッカビー・ハリスと言う妹がいる。貧しい貧困層で育った。貧しいながらも彼と妹の幼少期は家族の愛情を受けて育った。ホープの高等学校を卒業すると、ワシタ・バプテスト大学に進み、ジャネット・マケイン(旧姓)と出会い交際の末、1974年に結婚した。大学卒業後のハッカビーは結婚したジャネットと一緒にテキサス州ダラスの南部バプテスト神学校に行き、ハッカビーはそこで神学校で学ぶが、中退して著名なテレビ伝道師であるジェームズ・ロビソンのスタッフとなった後、1980年から1992年までは、バプテスト教会の牧師として活動、アーカンソー州バプテスト連盟の会長職も務めた。 政治キャリアのスタートは1992年の上院選挙で、アーカンソー州の共和党候補として初出馬するが敗北。翌年、大統領就任に伴い同州知事を退任したビル・クリントンの後任にジム・タッカー副知事が昇格したため行われた副知事選挙で勝利し、1994年には再選を果たした。 当初は1996年の上院選挙への出馬を予定していたが、タッカーがホワイトウォーター疑惑に絡んで退任すると州知事に昇格し、以後再選を重ねて2007年1月まで務めた。ハッカビーとクリントンは政治的信念を異にする一方でアーカンソー州ホープの出身で共に州知事を務めた共通点がある。社会問題の多くにおいては、共和党内きっての保守派として知られ、妊娠中絶・同性婚を非とする。創造論を信じており、「個人的にはダーウィンの進化論に賛成しない」「学生は創造に基づいた理論の授業(ID理論)を受けるべき」との見解を示している。 また、親イスラエル派でもある。2009年8月にイスラエルを訪問した際にはパレスチナの独立に反対すると発言した。2011年1月31日には、エルサレムでの入植活動を推進する団体「エルサレム開拓プロジェクト」の招待を受けて、共和党支持者として有名な俳優のジョン・ヴォイトと共に、エルサレムを訪れてユダヤ人入植者らを前に講演した。講演でハッカビーは、「私がアメリカ人だから、キリスト教徒であるから、白人であるから、英語を話すからとの理由でアメリカの特定の場所に住むことができないなど想像も出来ない」と述べ、「神から与えられた土地」を併合する権利がユダヤ人にはあるという入植者たちの見解を支持した。また、エルサレムはイスラエルの「永遠の首都」であるとし、エルサレムの東西分割に反対するとした。 しかし移民問題で不法移民の子弟の教育機会を重視したり、州知事時代の社会保障や税制政策において、やや「大きな政府」を志向する傾向が見られ、またブッシュ政権の外交を「傲慢」であるとして批判するなど、共和党保守派とは一線を画する独自の政策傾向も持つ(大統領選の項も参照のこと)。
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経歴・政策
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「アブドッラフマーン・アーリフ」の記事における「経歴・政策」の解説
アブドッラフマーン・アーリフは、イラク陸軍の職業軍人として、1958年の自由将校団らによる王政打倒クーデター(7月14日革命)に参加した。また彼の弟であるアブドッサラーム・アーリフがアブドルカリーム・カーシム首相から政権を奪取した 1963年のクーデター(ラマダーン革命)も支援し、クーデター成功後に、軍の司令官に任命された。1966年4月に弟のアブドッサラーム大統領は航空機事故によって死亡した。事故後、首相のアブドッラフマーン・アル=バッザーズが一旦は大統領に就任したが、支持が得られず、3日後にアブドッラフマーン・アーリフに大統領職が譲られた。その後、イラク革命指導評議会に正式に承認された。弟の政策を引き継いだが、よりナショナリズム的な政治を行った。 弟と同様に、汎アラブ主義を掲げるエジプトのナセル大統領を強く支持していた。エジプトが中心となりイスラエルと戦った1967年6月の第3次中東戦争にもイラク軍を派兵した。戦争はアラブ側が多くの犠牲者を出して終戦したが、イラク軍は他のアラブ諸国よりも優秀な戦いぶりをみせた。その後、もう一人のナセル主義者であるアーリフ・アブドッラッザーク空軍司令官がクーデターを試みた。ソ連製ミグ17戦闘機で大統領宮殿の一部を爆撃したが、クーデターは失敗し、アブドッラッザークは逮捕された。アブドッラッザークがクーデターを試みたのは2度目だったため、テレビ演説で、ラザークを確実に処罰し、恩赦以外では釈放しないと宣言した。1967年には大統領自身が所得税を免除されるという無分別な法律を作ったが、それ以外の方法で富を得られなかったことが示唆される。 1968年7月17日、就寝中にアフマド・ハサン・アル=バクルらバアス党員によって無血クーデターを起こされた。かつて自身が弟と共に1963年クーデターで行ったのと同じく、クーデター勢力はラジオ局と国防省を占拠した上で、クーデター成功を宣言した。次期国防大臣ハルダーン・ アッ=ティクリーティーから電話を受け、大統領職辞任に応じた。安全を保障された上で空港に送られ、トルコに亡命した(7月17日革命)。 サッダーム・フセインが政権を取った1979年になってイラク帰国を果たしたが、公的な場や政治的な場に顔を出すことはほとんどなかった。メッカ巡礼のため、一度だけ出国を許可された。その後も国内に居住していたが、2003年の米軍侵攻によるフセイン政権崩壊後、2004年にアンマン(ヨルダン)に移住した。2007年8月24日にアンマンで亡くなった。
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