空軍部隊の派遣
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「朝鮮民主主義人民共和国のベトナム戦争参戦」の記事における「空軍部隊の派遣」の解説
ベトナムの公刊戦史は、北朝鮮の空軍派遣部隊を「Z団」(ベトナム語: Đoàn Z)と呼称し、1967年から1968年にかけてケップ飛行場に駐屯したことを除いてその正確な規模・部隊構成・活動について明らかにしていない。実際に派遣されたのは朝鮮人民軍空軍第203軍部隊で、これは黄州飛行場に駐屯する飛行連隊であった。連隊長はキム・チャンソン上佐とされる。 1966年9月21日付のベトナム人民軍公文書によれば、ベトナム労働党中央軍事委員会常務委員会の会議上、北朝鮮が空軍部隊の派遣を提案したことが人民防空・空軍司令官フン・テー・タイ(ベトナム語版)から報告された。北朝鮮側は、派遣部隊は中隊ごとに北ベトナム空軍連隊に編入されること、北ベトナムの軍服を着用することなどを要望した。中央軍事委員会書記のヴォー・グエン・ザップは、同盟国は尊重しなければならないが、同時に北ベトナムの主体性も保持する必要があり、将来の無用な混乱を避けるために両者間の連絡・調整は明瞭かつ正確になされなければならないとした。 9月24日から30日にかけて、ベトナム人民軍総参謀長ヴァン・ティエン・ズン、朝鮮人民軍総参謀長崔光ら両軍事代表団の会談がハノイにおいて行われ、9月30日に大要次のような議定書が調印された。 1966年10月下旬から11月の間に、北朝鮮はMiG-17中隊1個(10機)を充足する人員を派遣する。1966年末から1967年初の間に北ベトナム側が機体の準備を終えた後、さらにMiG-17中隊1個を充足する人員を派遣する。1967年中に北朝鮮側が人員の準備を終え、北ベトナム側が機体の準備を終えた後、さらにMiG-21中隊1個を充足する人員を派遣する。 内部管理と戦闘指揮を容易にするため、北朝鮮側人員は各中隊に組織され、将来的には連隊として組織されることとする。この連隊が編成されるまでは各中隊は北ベトナム空軍連隊の隷下に置かれ、北ベトナム空軍連隊の飛行場を使用するが、連隊が編成された後は独自の飛行場を割り当てられる。 北ベトナム空軍連隊隷下の各中隊は、連隊本部及びベトナム人民防空・空軍司令部の指導・指揮下に置かれる。 空軍部隊間、あるいは空軍部隊と対空砲兵部隊・対空ミサイル部隊の間の調整は、ベトナム人民防空・空軍司令部の指導・指揮下に実施される。 情報保障・航空機に関する技術保障など、全ての指揮・技術保障は北ベトナム側が提供する。 北朝鮮側人員に対し、北朝鮮は基本的な技術訓練・戦術訓練を実施する。北ベトナムに到着後、北ベトナムは戦場・気象・作戦対象等の諸条件に適応するための応用的訓練のみを提供する。 第203軍部隊が北ベトナムに到着した時期は1966年10月下旬から11月上旬の間だったと見られる。10月19日には第203軍部隊に対して金日成が談話を行っており、12月22日には6週間前に北ベトナムで北朝鮮パイロットが確認されたとの情報がアメリカで報道されているためである。第203部隊は飛行訓練を終えた後、1967年5月20日までに実戦配備された。ベトナム国家大学ハノイ校人文社会科学学部のグエン・ティ・マイ・ホアは派遣の日時を1966年10月20日、初交戦の日時を12月15日としている。第203軍部隊の各中隊は北ベトナム空軍第923連隊に編入されたが、この部隊はバクザン省ランザン県のケップ飛行場に駐屯していた。MiG-21中隊については、フックイエン飛行場(後のノイバイ国際空港)に駐屯していた北ベトナム空軍第921連隊に編入されたともいう。 部隊の規模については様々な数字が挙げられている。当時北ベトナム空軍司令部政治委員だったファン・ハク・ヒー(ベトナム語版)少将は、トゥオイチェー紙の2008年8月28日付の記事では87名が参戦したとし、ティエンフォン紙の2012年8月6日付の記事では飛行士24名(14名がMiG-17P、10名がMiG-17Fに搭乗)、地上要員113名が参戦したとしている。マイ・ホアによれば、派遣部隊は総員384名(うち飛行士96名)で、1968年1月には総員185名(うち飛行士46名)に減少し、5回の人員交代を経た1968年12月末の時点では総員159名(うち飛行士31名)であった。1996年に韓国へ亡命した元北朝鮮空軍のイ・チョルスは、1個連隊70名が6ヶ月ごとに交代し1967年から1972年までの間に延べ800名程度が派遣されたと証言した。 ヒー少将によれば、北ベトナムは1966年から1969年までの間に222機を撃墜して51人の捕虜を得ており、そのうちの26機が派遣部隊の上げた戦果である。1967年5月20日には、金日成が派遣部隊に対し米軍機10機の撃墜を喜ぶ祝賀文を送っている。イ・チョルスの証言では、派遣部隊は1969年5月28日に8機のMiG-17で12機のF-105を撃墜する戦果を上げ、これを記念して北朝鮮は谷山飛行場駐屯の第528飛行連隊を創設したという。 ベトナムの報道は部隊が派遣期間中に14名の戦死者を出したとするが、これは後述するバクザン省の墓地に残されていた墓碑が14基だったからである。墓碑によれば最も早い戦死者は1965年9月24日に死亡したウォン・ホンサンで、1946年4月25日生まれの19歳であった。ただし彼の戦死の日付は部隊派遣の協定が結ばれた1966年9月30日を1年以上遡っている。イ・チョルスは80名が戦死したと証言し、バクザン省墓地には着陸時や陸上での緊急脱出時に戦死した者の遺体が埋葬されたと主張する。つまり、海上での戦死などにより遺体が回収できなかった者は14名の中に含まれていないということである。2019年3月26日には、平壌の祖国解放戦争参戦烈士墓の一角にベトナム戦争参戦烈士27名の墓があると在日本朝鮮人総聯合会の機関紙朝鮮新報が報じた。 派遣部隊が北ベトナムを撤収した時期をベトナム側の記述はおおむね1969年頃としている。バクザン省墓地に埋葬された者の中で最も遅く戦死したのは1968年2月12日に死亡したキム・ギファンで、1936年1月5日生まれの32歳であった。一方で前述の通りイ・チョルスは派遣期間を1972年までと証言しており、韓国国防部軍史編纂研究所のイ・シンジェは1973年1月27日のパリ和平協定締結直前まで駐留を続けていたものと見るが、西江大学校のイ・ハヌはベトナム側の記述を覆すには根拠が不足していると指摘する。
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