空軍部隊の派遣とは? わかりやすく解説

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空軍部隊の派遣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/04 22:25 UTC 版)

朝鮮民主主義人民共和国のベトナム戦争参戦」の記事における「空軍部隊の派遣」の解説

ベトナム公刊戦史は、北朝鮮空軍派遣部隊を「Z団」(ベトナム語: Đoàn Z)と呼称し、1967年から1968年にかけてケップ飛行場駐屯したことを除いてその正確な規模部隊構成活動について明らかにていない実際に派遣されたのは朝鮮人民軍空軍203軍部隊で、これは黄州飛行場駐屯する飛行連隊であった連隊長はキム・チャンソン上佐とされる1966年9月21日付のベトナム人民軍公文書によればベトナム労働党中央軍事委員会常務委員会の会議上、北朝鮮が空軍部隊の派遣を提案したことが人民防空空軍司令官フン・テー・タイ(ベトナム語版)から報告された。北朝鮮側は、派遣部隊中隊ごとに北ベトナム空軍連隊編入されること、北ベトナム軍服着用することなどを要望した。中央軍事委員会書記ヴォー・グエン・ザップは、同盟国尊重しなければならないが、同時に北ベトナム主体性保持する必要があり、将来無用な混乱避けるために両者間の連絡調整明瞭かつ正確になされなければならないとした。 9月24日から30日にかけて、ベトナム人民軍総参謀長ヴァン・ティエン・ズン朝鮮人民軍総参謀長崔光両軍事代表団の会談ハノイにおいて行われ9月30日大要次のような議定書調印された。 1966年10月下旬から11月の間に、北朝鮮MiG-17中隊1個(10機)を充足する人員派遣する1966年末から1967年初の間に北ベトナム側機体準備終えた後、さらにMiG-17中隊1個を充足する人員派遣する1967年中に北朝鮮側が人員準備終え北ベトナム側機体準備終えた後、さらにMiG-21中隊1個を充足する人員派遣する内部管理戦闘指揮容易にするため、北朝鮮人員各中隊組織され将来的には連隊として組織されることとする。この連隊編成されるまでは各中隊北ベトナム空軍連隊隷下置かれ北ベトナム空軍連隊飛行場使用するが、連隊編成された後は独自の飛行場割り当てられる北ベトナム空軍連隊隷下各中隊は、連隊本部及びベトナム人防空空軍司令部指導指揮下に置かれる空軍部隊間、あるいは空軍部隊対空砲兵部隊・対空ミサイル部隊の間の調整は、ベトナム人防空空軍司令部指導指揮下に実施される情報保障航空機に関する技術保障など、全ての指揮技術保障北ベトナム側提供する北朝鮮人員対し北朝鮮基本的な技訓練戦術訓練実施する北ベトナム到着後、北ベトナム戦場気象作戦対象等の諸条件適応するための応用訓練のみを提供する。 第203軍部隊が北ベトナム到着した時期1966年10月下旬から11月上旬の間だったと見られる10月19日には第203軍部に対して金日成談話行っており、12月22日には6週間前に北ベトナム北朝鮮パイロット確認されたとの情報アメリカで報道されているためである。第203部隊飛行訓練終えた後、1967年5月20日までに実戦配備された。ベトナム国家大学ハノイ校人文社会科学学部のグエン・ティ・マイ・ホアは派遣日時1966年10月20日、初交戦日時12月15日としている。第203軍部隊の各中隊北ベトナム空軍第923連隊編入されたが、この部隊バクザン省ランザン県ケップ飛行場駐屯していた。MiG-21中隊については、フックイエン飛行場(後のノイバイ国際空港)に駐屯していた北ベトナム空軍第921連隊編入されたともいう。 部隊規模について様々な数字挙げられている。当時北ベトナム空軍司令部政治委員だったファン・ハク・ヒー(ベトナム語版)少将は、トゥオイチェー紙の2008年8月28日付の記事では87名が参戦したとし、ティエンフォン紙の2012年8月6日付の記事では飛行士24名(14名がMiG-17P、10名がMiG-17Fに搭乗)、地上要員113名が参戦したとしている。マイ・ホアによれば派遣部隊総員384名(うち飛行士96名)で、1968年1月には総員185名(うち飛行士46名)に減少し、5回の人員交代経た1968年12月末の時点では総員159名(うち飛行士31名)であった1996年韓国へ亡命した北朝鮮空軍のイ・チョルスは、1個連隊70名が6ヶ月ごとに交代し1967年から1972年までの間に延べ800程度派遣されたと証言したヒー少将によれば北ベトナム1966年から1969年までの間に222機を撃墜し51人の捕虜得ており、そのうち26機が派遣部隊の上げた戦果である。1967年5月20日には、金日成派遣部隊対し米軍機10機の撃墜を喜ぶ祝賀文を送っている。イ・チョルスの証言では、派遣部隊1969年5月28日に8機のMiG-1712機のF-105撃墜する戦果上げ、これを記念して北朝鮮谷山飛行場駐屯の第528飛行連隊創設したという。 ベトナム報道部隊派遣期間中に14名の戦死者出したとするが、これは後述するバクザン省墓地残されていた墓碑14基だったからである。墓碑によれば最も早い戦死者1965年9月24日死亡したウォン・ホンサンで、1946年4月25日生まれ19歳であった。ただし彼の戦死日付部隊派遣協定結ばれた1966年9月30日1年以上遡っている。イ・チョルスは80名が戦死した証言しバクザン省墓地には着陸時や陸上での緊急脱出時に戦死した者の遺体埋葬されたと主張する。つまり、海上での戦死などにより遺体回収できなかった者は14名の中に含まれていないということである。2019年3月26日には、平壌祖国解放戦争参戦烈士墓の一角ベトナム戦争参戦烈士27名の墓があると在日本朝鮮人総聯合会機関紙朝鮮新報報じた派遣部隊北ベトナム撤収した時期ベトナム側記述おおむね1969年頃としている。バクザン省墓地埋葬された者の中で最も遅く戦死したのは1968年2月12日死亡したキム・ギファンで、1936年1月5日生まれ32であった一方で前述通りイ・チョルスは派遣期間1972年までと証言しており、韓国国防部軍史編纂研究所のイ・シンジェは1973年1月27日パリ和平協定締結直前まで駐留続けていたものと見るが、西江大学校のイ・ハヌはベトナム側記述覆すには根拠不足していると指摘する

※この「空軍部隊の派遣」の解説は、「朝鮮民主主義人民共和国のベトナム戦争参戦」の解説の一部です。
「空軍部隊の派遣」を含む「朝鮮民主主義人民共和国のベトナム戦争参戦」の記事については、「朝鮮民主主義人民共和国のベトナム戦争参戦」の概要を参照ください。

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