祭礼の歴史とは? わかりやすく解説

祭礼の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 10:15 UTC 版)

西条祭り」の記事における「祭礼の歴史」の解説

神社の祭礼神社創建時より催行なされていた。それが現在のように氏子祭り屋台を奉納する大掛かりな祭礼行事になったのは江戸時代中期考えられる。 現在、西条藩領内確認できる最古の記録一宮神社(新居浜市)記録で、 松平頼致第2代西条藩主となった正徳元年(1711年)の「御用留帳」には一宮神社祭礼御行幸行列中に台車だんじり)」「御船」等が記録されている。新居浜市域で最初に確認される理由については、元禄4年(1691)の別子銅山開坑伴った上方との交流により、経済力と共に祭礼だんじり伝播してきた可能性指摘されている。 西条市域で最初に確認できる屋台記録寛延3年1750)に西条藩から出された「午お書きだし」と呼ばれる倹約令である。「伊曽乃神社祭礼時に屋台宰領の者に対しては、その時限り平素の身分かかわらず、裃、小脇差着用出願によって許可する」「氷見祭礼石岡神社祭礼を指す)の時、供奉その他役付の者、屋台宰領の者は従来仕来り通り着用苦しからず。但し衣服綿服着用すること」(久門家文書)と記録されている。その後宝暦7年(1757)の石岡神社記録に「屋台」、同11年(1761)の伊曾乃神社記録に「屋台」がそれぞれ登場するが、どこの町やから奉納されたものかが明らかではなく伊曾乃神社記録登場する屋台」については現在も御神輿御供務め本町屋台ではないか推測されている。町名などの詳細明らかになるのは天明年間以降で、天明元年(1781)の石岡神社行列帳には「屋台西町中」「神楽屋土居中」が記録され天明6年(1786)の伊曾乃神社の「磯野歳番諸事日記」の行列式には中野村福武大町北之丁・大町河原町北町魚屋町・中の町・大師町東町紺屋町横町本町から12台の屋台が、北川村から笠鉾出されたことが記録されている。西条新居浜太鼓台伝播してきた19世紀前半文政9年(1826)になると、一宮神社文書の「御用留帳」に「此度当方北浜にてみこし太鼓出来に付」と記録され喜多浜に神輿太鼓登場した天保6年(1835)には9代藩主松平頼学106年ぶりに西条お国入り果たし、その年の伊曽乃神社祭礼上覧したとされている。その際製作されたと考えられる絵巻「伊曽乃祭礼細見図」(東京国立博物館)には中野村・北の町・福武村・南組・喜多川・永易河原町神拝村古川土場朔日市横黒・明屋敷魚屋町・中野町大師町東町新地東町紺屋町上横町本町から奉納され19台の屋台喜多川樋之口分・喜多浜・朔日市新町から奉納された4台の御輿太鼓加えだんじり獅子舞など多様な神輿渡御行列詳細な描写描かれ伊曽乃神社祭礼がかなり発展していたことが窺えるまた、この絵巻屋台四本柱内側人形など造り物飾られた状態で描かれており、かつての西条屋台には人形屋台としての要素があったことが文献史料だけでなく絵画史料でも裏付けられた。加えて頼学が編纂命じた西条藩領の地誌西條誌』(1842)には、領内神社奉納される台尻だんじり)・御輿太鼓の数や一神社の船みゆき等の記録があり、天保年間西条藩領の祭礼の様子垣間見える現在の西条市域について伊曽乃神社石岡神社には台尻御輿太鼓記載があるが飯積神社については太鼓台記載が無いため、同社太鼓台奉納されるようになったのは少なくとも『西條誌』が編纂された天保13年(1842)以降であると考えられている。 明治時代になり暦が太陽暦変更されると、各神社の祭礼日も旧暦太陽暦換算した日に行われるようになった屋台彫刻見られる技法はより進化したものとなり、新し技法を採り入れた屋台次々と製作された。江戸時代からの屋台そのまま使用する町もあったが、伊曽乃神社石岡神社共に多くのの屋台新調された。明治末期になると御輿楽車布団締や水引幕三角布団刺繍がより厚く大きなものに発達し、地の赤い部分がほとんど見えない程になっていった。 この時期になると飯積神社においても太鼓台奉納確認されている。明治末期には岸陰・川東飯岡本郷)・川西野口)・半田下島山上組・下島山下組船屋大谷の8台があったという。 このような変化の中、伊曽乃神社祭礼では江戸時代見られ渡御行列の中の船だんじり明治中期頃に廃れ狂言台も明治末期廃れてしまい姿を消してしまった一方古老伝承では祭礼中に明治末期から大正初めの頃から伊勢音頭歌い始められたという。 昭和8年(1932)には禎瑞嘉母神社神幸祭始められた。旧松山藩久松家から大神輿1台を譲り受け氏子浄財渡御祭具購入したそうである。この時の嘉母神社祭礼ではまだ太鼓台奉納無かった昭和15年1940)には伊曽乃神社県社から国幣中社昇格し翌年からの祭礼日10月1516日変更された。翌年太平洋戦争開戦する祭礼続けられており、昭和18年1943)の新聞記事には伊曾乃神社祭礼に「戦勝祈願のために車を付けてでも奉納せよ」という達し出されたり、石岡神社ではモンペ部隊神輿出動したりする様子報じられている。昭和20年19458月終戦迎えたが、神道行事禁止に伴い屋台等の運行禁止され、各神社は総神楽奉納した祭礼復活するのは翌昭和21年1946になってからであった

※この「祭礼の歴史」の解説は、「西条祭り」の解説の一部です。
「祭礼の歴史」を含む「西条祭り」の記事については、「西条祭り」の概要を参照ください。

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