祭礼の歴史
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各神社の祭礼は神社創建時より催行なされていた。それが現在のように氏子が祭り屋台を奉納する大掛かりな祭礼行事になったのは江戸時代中期と考えられる。 現在、西条藩領内で確認できる最古の記録は一宮神社(新居浜市)の記録で、 松平頼致が第2代西条藩主となった正徳元年(1711年)の「御用留帳」には一宮神社祭礼の御行幸行列中に「台車(だんじり)」「御船」等が記録されている。新居浜市域で最初に確認される理由については、元禄4年(1691)の別子銅山開坑に伴った上方との交流により、経済力と共に祭礼やだんじりが伝播してきた可能性が指摘されている。 西条市域で最初に確認できる屋台の記録は寛延3年(1750)に西条藩から出された「午お書きだし」と呼ばれる倹約令である。「伊曽乃神社祭礼の時に、屋台宰領の者に対しては、その時に限り平素の身分にかかわらず、裃、小脇差着用を出願によって許可する」「氷見の祭礼(石岡神社祭礼を指す)の時、供奉その他役付の者、屋台宰領の者は従来の仕来りの通り裃着用苦しからず。但し衣服は綿服を着用すること」(久門家文書)と記録されている。その後宝暦7年(1757)の石岡神社の記録に「屋台」、同11年(1761)の伊曾乃神社の記録に「屋台」がそれぞれ登場するが、どこの町や村から奉納されたものかが明らかではなく、伊曾乃神社の記録に登場する「屋台」については現在も御神輿の御供を務める本町屋台ではないかと推測されている。町名などの詳細が明らかになるのは天明年間以降で、天明元年(1781)の石岡神社の行列帳には「屋台西町中」「神楽屋台土居中」が記録され、天明6年(1786)の伊曾乃神社の「磯野歳番諸事日記」の行列式には中野村・福武村・大町北之丁・大町河原町・北町・魚屋町・中の町・大師町・東町・紺屋町・横町・本町から12台の屋台が、北川村から笠鉾が出されたことが記録されている。西条や新居浜に太鼓台が伝播してきた19世紀前半の文政9年(1826)になると、一宮神社文書の「御用方留帳」に「此度当方北浜にてみこし太鼓出来に付」と記録され、喜多浜に神輿太鼓が登場した。 天保6年(1835)には9代藩主松平頼学が106年ぶりに西条にお国入りを果たし、その年の伊曽乃神社の祭礼を上覧したとされている。その際製作されたと考えられる絵巻「伊曽乃祭礼細見図」(東京国立博物館蔵)には中野村・北の町・福武村・南組・喜多川村・永易村・河原町・神拝村・古川分土場・朔日市横黒・明屋敷・魚屋町・中野町・大師町・東町新地・東町・紺屋町・上横町・本町から奉納された19台の屋台、喜多川村樋之口分・喜多浜・朔日市村・新町から奉納された4台の御輿太鼓に加え船だんじり・獅子舞など多様な神輿の渡御行列が詳細な描写で描かれ、伊曽乃神社の祭礼がかなり発展していたことが窺える。また、この絵巻の屋台は四本柱の内側に人形などの造り物が飾られた状態で描かれており、かつての西条の屋台には人形屋台としての要素があったことが文献史料だけでなく絵画史料でも裏付けられた。加えて頼学が編纂を命じた西条藩領の地誌『西條誌』(1842)には、領内の神社に奉納される台尻(だんじり)・御輿太鼓の数や一宮神社の船みゆき等の記録があり、天保年間の西条藩領の祭礼の様子が垣間見える。現在の西条市域について伊曽乃神社・石岡神社には台尻や御輿太鼓の記載があるが飯積神社については太鼓台の記載が無いため、同社で太鼓台が奉納されるようになったのは少なくとも『西條誌』が編纂された天保13年(1842)以降であると考えられている。 明治時代になり暦が太陽暦に変更されると、各神社の祭礼日も旧暦を太陽暦に換算した日に行われるようになった。屋台の彫刻に見られる技法はより進化したものとなり、新しい技法を採り入れた屋台も次々と製作された。江戸時代からの屋台をそのまま使用する町もあったが、伊曽乃神社、石岡神社共に多くのの屋台が新調された。明治末期になると御輿楽車の布団締や水引幕、三角布団の刺繍がより厚く大きなものに発達し、地の赤い部分がほとんど見えない程になっていった。 この時期になると飯積神社においても太鼓台の奉納が確認されている。明治末期には岸陰・川東(飯岡本郷)・川西(野口)・半田・下島山上組・下島山下組・船屋・大谷の8台があったという。 このような変化の中、伊曽乃神社祭礼では江戸時代に見られた渡御行列の中の船だんじりが明治中期頃に廃れ、狂言台も明治末期に廃れてしまい姿を消してしまった一方、古老の伝承では祭礼中に明治末期から大正初めの頃から伊勢音頭が歌い始められたという。 昭和8年(1932)には禎瑞の嘉母神社で神幸祭が始められた。旧松山藩主久松家から大神輿1台を譲り受け、氏子の浄財で渡御の祭具を購入したそうである。この時の嘉母神社祭礼ではまだ太鼓台の奉納は無かった。 昭和15年(1940)には伊曽乃神社が県社から国幣中社に昇格し、翌年からの祭礼日が10月15・16日に変更された。翌年に太平洋戦争が開戦するが祭礼は続けられており、昭和18年(1943)の新聞記事には伊曾乃神社祭礼に「戦勝祈願のために車を付けてでも奉納せよ」という達しが出されたり、石岡神社ではモンペ部隊の神輿が出動したりする様子が報じられている。昭和20年(1945)8月終戦を迎えたが、神道行事禁止に伴い屋台等の運行は禁止され、各神社は総神楽を奉納した。祭礼が復活するのは翌昭和21年(1946)になってからであった。
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