社稷の臣とは? わかりやすく解説

社稷の臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 01:37 UTC 版)

陸遜」の記事における「社稷の臣」の解説

黄武2年223年4月陸遜丞相孫邵群臣一同と共に孫権帝位即く事を進言した。 劉備崩御し劉禅が蜀の皇帝即位すると、諸葛亮丞相として政権握り、呉と蜀の国交は完全に回復するようになった孫権諸葛亮手紙を送るときは、常に陸遜通じて行いまた、自身印璽陸遜預け、呉の蜀との外交文書陸遜添削した上で発行されるようにした。歴代特別な待遇受けた黄武5年226年)春、孫権民衆疲弊し耕地放置されていることを憂い、その対策求めた陸遜上奏し、諸将農地開墾されるよう願ったところ、孫権はその意見褒め、自らも実践するよう取り計らった。冬、陸遜孫権施策を上言し、寛容政治勧めるとともに卑しい者達の売名目的言葉耳を貸さないよう願った孫権役人命令して法令をすべて書き写し郎中命じて陸遜諸葛瑾元にそれを送り加除修正させた。 黄武7年228年)、孫権鄱陽太守周魴対し偽りの降伏を魏に申し出て10万の兵を指揮する曹休を石亭に誘い出させた上で孫権陸遜大都督に任命し曹休追討指揮執る事を命じたそのことについて、陸機は「仮公黃鉞統御六師中軍禁衛摂行王事主上執鞭百司屈膝陸遜黃鉞授けられ禁軍六師率いて王の役割代行する主上は自ら鞭を執って引見した。百官は膝を屈した)」と絶賛したまた、諸将の中で仮節を与えられた者は何名かいたが、仮黄鉞与えられたのは呉では陸遜だけである。 陸遜は、朱桓全琮それぞれ3の兵を与えて左右部隊指揮任せ自身中央の軍の指揮執り3部隊に分かれて同時に進軍した曹休騙された事に気づいたが、自身指揮する軍勢大軍であった事からそのまま呉軍との交戦及んだ曹休伏兵配置していたものの、陸遜はそれを蹴散らし上で曹休戦って大い破り追撃をかけて夾石まで軍をすすめ、1万余の兵を斬ったり捕縛し多くの馬や兵糧奪い車両など兵器類1万台を手にいれた(石亭の戦い)。曹休賈逵朱霊王淩援護により脱出することができたが、敗北恥辱により背中腫れ物出来て死去した黄龍元年229年)、孫権皇帝即位するに伴い上大将軍・右都護の官を授かった。その年の秋、孫権首都を再び建業戻し武昌には太子孫登皇子達を置き、尚書役所そのままにした。太子後見役のため陸遜武昌召し寄せ荊州揚州の三郡の統治、それに軍事国事監督委任した孫慮が闘熱中していたため、これを直々に注意しまた、射声校尉孫松孫権寵愛いいこと職務怠慢であった事から、係の役人に罰を与えるなど、皇子公子達の教育係務めた陸遜刑罰より礼を重んじるべきだと考えており、当時流行していた魏の劉廙議論批判し、その議論かぶれていた南陽謝景叱責した。また、孫権にも上奏し、厳罰化傾向戒め一度罪を犯した者にもなるべく機会与えるよう嘆願した孫権東方の島の経略心を奪われ、夷州や朱崖占領するため衛温諸葛直の軍を派遣しようとしたときは、無用であると諫言したが、孫権はこれを聞かず出兵させた。結局陸遜言葉通り成果得られなかった。また、遼東公孫淵服属させようとしたが、公孫淵は呉に反旗したため遼東親征ようとした陸遜は、これにも反対した。孫権はこの進言受け入れた嘉禾3年234年5月孫権は自らは合肥出兵するとともに陸遜諸葛瑾襄陽攻撃させた。陸遜腹心の韓扁という人物送り孫権戦況報告させたが、韓扁は沔中で敵と遭遇し捕虜となってしまった。諸葛瑾機密が敵に洩れてしまった事に動揺し陸遜撤退すべきではないか意見求めたが、陸遜はすぐには返事をせず、ただ泰然自若としていた。諸葛瑾陸遜には考えがあるのだと察した諸葛瑾陸遜の元を訪れると、陸遜状況冷静に分析した上で撤退作戦教示した。陸遜諸葛瑾はその作戦従い無事に撤退することができた。 陸遜撤退途中、白囲まで来たところで、表向き狩猟をすると偽り将軍張梁周峻命じて江夏新市安陸石陽急襲させた。特に石陽人々油断していたため、動揺した敵の将は多くの民を殺害した上でやっとのことで城門閉ざすことが出来た有り様であり、数千人が斬られる大損害を受けた陸遜は軍に乱暴を禁止し捕虜優しくねぎらい自由な帰宅許した。そのため、魏の官民からは呉に帰属する者も多く出た結局陸遜諸葛瑾らは江夏郡安陸石陽城を攻め落とした 魏の江夏太守の逯式は軍勢率いてしばしば呉との国境侵していたが、古くからの有力者である文休文聘の子)とは不仲であった陸遜その事聞き、逯式の呉への投降要望に対して迎え準備ができたという偽手紙送って逯式を動揺させた。その様見て江夏将兵は逯式への信頼失いしばらくして逯式は免職となった嘉禾6年237年正月将軍胡綜が、奔喪には厳罰で対応すべきと提議した丞相顧雍大辟に従うよう上奏した。その後呉県県令孟宗が母の喪に奔赴し、葬後に自ら武昌拘置されて聴刑した陸遜はその素行を陳べて請い孫権かくして孟宗の罪を一等減じた2月前年から反乱起こしていた賊の彭旦らを攻撃し、その年のうちにこれを破った同年中郎将の周祗という人物鄱陽において徴兵したいと申し入れてきたが、陸遜鄱陽住民民心は不安定である事から賛成しなかった。しかし、周祗が強く主張したため、やむなくそれを許可した結果、周祗は住民の呉遽の反乱により殺害され豫章廬陵不服従民もこれに呼応し周囲諸県治安悪化した陸遜は自ら反乱平定志願し陳表陳武の子)の力も借りてこの反乱鎮圧し、呉遽を降伏させた。このときの投降者の中から8000徴兵した。陸遜陳表に偏将軍都郷侯の官位爵位授けた長江沿岸の章阬の守備当たったこの間謝淵や謝宏という人物経済財政政策について意見述べ孫権から下問を受けると、陸遜は「国家根本民衆であるため、数年万民たちの安寧計り財政豊かになった上で再検討すべき」と論じた

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