反秦軍とは? わかりやすく解説

反秦軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 06:01 UTC 版)

項羽」の記事における「反秦軍」の解説

末期二世元年紀元前209年7月陳勝・呉広の乱起きると、同年9月項羽項梁に従って会稽郡役所赴いて項梁命じられ郡守である殷通の頭を斬り落とした。さらに、襲いかかってきた殷通部下百人近く一人殺した会稽役人たちは項羽強さ平伏し項梁会稽郡となって造反軍に参加したその後項梁項羽命じて襄城攻めさせ、項羽はやっと攻め落として、城兵全て生き埋めにして凱旋した二世2年紀元前208年12月陳勝御者荘賈によって殺害されると、同年6月項梁范増から教え請い旧王家末裔・羋心を探し出してこれを「楚王」に祭り上げる。羋心は「懐王」を名乗り大い威勢を奮った。同年7月項梁命令で、項羽劉邦とともに城陽城を落とし、西に向かい秦軍濮陽の東で撃破した二人は、定陶城を攻めたが、落とすことができず、さらに西に向かい同年8月雍丘において、秦の三川郡守である李由李斯長子)を討ち取る引き返して外黄攻めたが、そこから去って陳留攻めた。 しかし、陳留攻めている時、同年9月項梁定陶で秦の章邯戦い戦死する懐王は、盱台から彭城移り総大将となった同年9月懐王は、斉の使者項梁戦死予言した宋義楚軍指揮する上将軍任じ項羽次将にして公に任じる章邯攻められていた趙の救援宋義が当たることになり、項羽項梁の仇を討つため劉邦とともに関中を入ることを望んだが、懐王老将たち から、「項羽勇猛ですが残忍で、以前襄城皆殺し行い通過する先々では残滅されないことはない」という反対があり、劉邦のみが関中派遣され西方の地を攻略することとなった宋義は趙の張耳陳余救援要請受けて趙の鉅鹿向かったが、進軍安陽までで止めてしまい、46日間安陽留まる項羽進軍すべきと宋義直訴したが「秦が趙との戦いで疲弊したところを打ち破ると言い、「狂暴使命従わないものは斬刑処す」という項羽に対してあてこすった命令全軍に出す。宋義は斉と和親するため、斉の宰相就任しようと楚軍から離れていく息子宋襄を送るための大宴会を開く。その一方で、兵は飢え凍えて苦しんでいた。二世3年紀元前207年11月項羽は、「秦が趙を打ち破れば、さらに強大になる。懐王宋義上将軍任じ国運託しているのに、宋義は兵を憐れまず、子の出世という私事ばかり考えている。社稷の臣ではない」と言い懐王命令偽り宋義が斉と謀り反逆したとして、宋義帰ってきたところを殺害する諸将項羽従い項羽を仮の上将軍とする。また、宋襄追いかけ殺害した懐王は、項羽上将軍任じ項羽が趙救援の軍を率いることとなった項羽北進開始し鉅鹿包囲していた秦の章邯率い20超える大軍決戦行い大勝利挙げる鉅鹿の戦い)。この戦いで数に劣るの兵は皆一人十人の敵と戦った伝えられる同年12月項羽勇猛さ功績により各国の軍の指導者たちは項羽服属し、項羽各国諸侯の上将軍となり、諸侯の軍はその指揮下に入った項羽その後章邯率い秦軍攻めて連戦連勝する。同年6月章邯配下司馬欣や趙の陳余降伏するよう進言を受け、項羽盟約結ぼうとする。この時の盟約成立しなかったため、項羽はさらに章邯攻撃して勝利して章邯盟約結んだ同年7月章邯降伏し、雍王に引き立てることで、戦い終わった降伏した20万人上の秦兵を先鋒にして、新安に進ませた。 しかし、漢元年紀元前206年11月暴動気配見えたため、新安において、夜襲行い章邯司馬欣董翳の3名を除いて全て阬(穴に埋めて殺すこと)した。 項羽行く先々で秦の土地平定行い同年12月関中入ろうとしたが、その時すでに、別働隊として咸陽目指していた劉邦関中入っていた。劉邦は、項羽によって章邯が雍王になると聞き劉邦関中の王になれない思い函谷関を兵で防ぎ項羽関中入り拒否したため、項羽関中入れなかった。劉邦関中入り阻まれたことと、先に劉邦咸陽陥落させていたことを聞いて項羽大い怒り函谷関攻撃して関中入ったまた、劉邦配下曹無傷から「劉邦関中の王となろうとして、元の秦王子嬰宰相にして、咸陽財宝自己の所有としました」と知らせたため、項羽怒って劉邦攻め殺そうとした。 劉邦慌てて項羽叔父項伯通じて和睦請い項羽と劉邦酒宴開いて和睦話し合い行い劉邦命拾いをした。これが有名な鴻門の会である。

※この「反秦軍」の解説は、「項羽」の解説の一部です。
「反秦軍」を含む「項羽」の記事については、「項羽」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「反秦軍」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「反秦軍」の関連用語

反秦軍のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



反秦軍のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの項羽 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS