陳勝・呉広の乱と挙兵とは? わかりやすく解説

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陳勝・呉広の乱と挙兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 16:17 UTC 版)

劉邦」の記事における「陳勝・呉広の乱と挙兵」の解説

ある時、劉邦は亭長の役目を任ぜられ、人夫引き連れて咸陽向かっていたが、秦の過酷な労働刑罰知っていた人夫たちは次々と逃亡した。秦は法も厳しく人夫足りなければその引率者責任を取らされる、とやけになった劉邦浴びるように酒を飲んだ上、酔っ払って残った全ての人夫逃がした。そして、行くあてがない残った人夫と共に沼沢隠れた。すると噂を聞きつけた者が子分なりたい次々と集まり劉邦小規模な勢力の頭となった紀元前209年陳勝・呉広の乱発生し反乱軍勢力強大になると、沛の県令反乱軍協力するべきか否か動揺、そこに蕭何曹参が「秦の役人である県令反乱して誰も従わない人気のある劉邦押し立てて反乱参加するべきだ」と吹き込んだ。一旦はこれを受け入れた県令であったが、劉邦使者が行った後に考え翻し、沛の門を閉じて劉邦締め出そうとした。劉邦一計案じて、絹に書いた手紙を城の中に投げ込んだ当時中国の都市基本的に城塞都市である)。その手紙には「今、この城を必死に守ったところで、諸侯反乱軍)がいずれこの沛を攻め落とすだろう。そうなれば沛の人々にも災いが及ぶことになる。今のうちに県令殺して頼りになる人物を長に立てるべきだ」と書いてあり、それに応えた城内の者は県令殺して劉邦迎え入れ長老らは新たな県令に就く事を求めた劉邦最初は「天下乱れ群雄争っている。自分などを選べば一敗地に塗れることになる。他の人を選ぶべきだ」と辞退したが、蕭何曹参までもが劉邦県令推薦したので、劉邦はこれを受けて県令となった以後劉邦沛公呼ばれるうになる沛公となった劉邦蕭何曹参樊噲と共に地元若者20003000人らを率いて武装集団結成し、秦に服属する胡陵・方与などの周囲の県を攻め行き故郷である豊の留守雍歯という者に任せたが、雍歯は旧魏の地に割拠していた魏咎武将周巿誘いかけられ寝返ってしまった。怒った劉邦は豊を攻めるが落とすことができず、仕方なく沛に帰った当時陳勝は秦の章邯の軍に敗れて逃れたところを殺されており、その傘下属した戦国時代公族末裔である景駒という人物が、同じく陳勝軍の甯君と秦嘉という者に陳勝代わる王に擁立されていた。劉邦は豊を落とすためにもっと兵力必要だ考えて景駒に兵を借り行った紀元前208年劉邦は甯君と共に秦軍と戦うが、敗れて引き上げ新たに碭(現在の安徽省宿州市碭山県)を攻めてこれを落とし、ここにいた5、6千の兵を合わせ、さらに下邑現在の安徽省宿州市碭山県)を落とし、この兵力持って再び豊を攻めた。 豊を取り返した劉邦であったが、この間に豊などとは比べ物にならないほどに重要なものを手に入れていた。張良である。張良始皇帝暗殺失敗した後に、旧韓の地で兵士集めて秦と戦おうとしていたが、それに失敗して留(沛の東南)の景駒所へ従属しようと思っていた。張良自身も自らの指導者としての資質の不足を自覚しており、自らの兵法さまざまな人物説いていたが、誰もそれを聞こうとはしなかった。ところが劉邦は、出会うなり熱心に張良言葉聞き入り張良はこれに感激して沛公はほとんど天性英傑だ」と劉邦のことを褒め称えた。これ以降張良劉邦作戦のほとんどを立案し張良言葉劉邦はほとんど無条件聞き入れついには天下をつかむことになる。劉邦張良の関係は、君臣関係の理想として後世の人に仰ぎ見られることになる。その頃景駒項梁によって殺され項梁は薛の地にて各地諸将招集し陳勝の死を確認した上で、反秦勢力新たな頭領として今後の計画に関する会盟執り行った。また旧懐王の孫に当たる熊心という人物探し出して楚王の位に即け、祖父と同じ懐王の号を与えて名目上君主として擁立した。この会盟には劉邦参加し項梁勢力へと参入する事となる。そして項梁より新たに5000人の兵と10名の将を得て、ようやく豊の地を奪還する事に成功した項梁何度となく秦軍破ったが、それと共に傲慢に傾いて秦軍侮るようになり、章邯軍の前に戦死した劉邦たちは遠征先から軍を戻し新たに反秦軍根拠地定められ彭城現在の江蘇省徐州市)へと集結した項梁殺した章邯は軍を北へ転じて趙を攻め趙王趙歇居城鉅鹿包囲したため、趙は救援求めてきていた。そこで懐王宋義項羽范増将軍として主力軍を派遣し、趙にいる秦軍破った後、咸陽へと攻めませようとし、その一方で劉邦別働隊として西回り咸陽を衝かせようとした。そして懐王はこうした行軍条件に差を設けた上で、「一番先に関中咸陽中心とした一帯)に入った者を、その地の王としよう」と約束した。 趙へ向かった項羽は、途中で行軍意図的に遅らせていた宋義殺して自ら総指揮官となり、渡河した後に船を全て沈めて3日分の兵糧を配ると残り物資破棄し退路断って兵士たち死に物狂い戦わせるという凄まじい戦術秦軍撃破一気にその勇名高めた。しかしその後咸陽進軍する途中で秦の捕虜20生き埋めにするという、これも凄まじい虐殺を行う。このことは後の楚漢戦争でも項羽悪評として人々心に残り多大な影響もたらすことになる。

※この「陳勝・呉広の乱と挙兵」の解説は、「劉邦」の解説の一部です。
「陳勝・呉広の乱と挙兵」を含む「劉邦」の記事については、「劉邦」の概要を参照ください。

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