陳友定との戦いと最期
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1365年2月、諸全が張士誠軍に攻められたため、耿天璧を援軍として送った。陳友定の軍が処州を攻めてきた。胡深が迎撃に向かうと、これを聞いた陳友定は退却した。胡深は追撃をかけて浦城へ至った。守備兵を破り、浦城を攻略した。 4月、進んで松渓を抜け、守将・張子玉を捕らえた。 5月、胡深は「松渓を攻略し、張子玉を捕らえました。敗れた敵軍は崇安へ奔りました。広信、撫州、建昌から軍を出し、同時に攻めれば福建を攻略できるでしょう」と朱元璋に伝えた。朱元璋は喜んで「張子玉は驍将である。これを捕らえたならば、陳友定の肝は潰れているだろう。この勢いに乗って攻めれば、勝てない理由などない」と、広信指揮・朱亮祖、建昌左丞・王溥を胡深と合流させ、揃って進軍するよう命じた。元帥・頼政を浦城の南で破った。 6月、楽清を攻略し、方国珍の鎮撫・周清、万戸・張漢臣、総管・朱善らを捕らえて応天府へ送った。朱亮祖らは崇安、建陽を攻略し、建寧で胡深と合流した。建寧の守将・阮徳柔は固く守っていた。朱亮祖は早く攻めたいと考えていた。胡深は怪しい気配を感じ、不利になると考えた。胡深は朱亮祖に「時機が来ていないときに攻めれば必ず災いがある。まだ戦うべきではない」と提案した。これに対し、朱亮祖は「参軍(胡深)はなぜ災いがあると分かる?軍を率いてここまで来て、攻める速さを緩められようか?天道は奥深く、山沢の気は常に変わり続けている。今のままで十分だ」と退けた。阮徳柔は4万の兵を率いて錦江に屯し、胡深の陣の後に迫った。朱亮祖はますます急いで攻めるようにと督戦した。退路を断たれた胡深は阮徳柔と戦い、2つの柵を破った。阮徳柔は幾重にも胡深の軍を囲んだ。日も暮れて、胡深はこのままでは囲みも解けず、持ちこたえるのは難しいと考え、囲みを突破しようとした。そこへ陳友定自ら牙将・頼政及び2千の兵を率いて挟撃し、胡深は馬がつまづいて落馬し、捕らえられた。 胡深は陳友定の元に送られた。陳友定は胡深に礼を尽くし、自身に仕えるよう勧めた。胡深は朱元璋の威徳、天命が朱元璋にあること、漢が竇融を助けて帰属させた故事を話し、陳友定に説いた。陳友定は「既に捕われの身というのに、人に不忠の誘いをかけるとはどういうことか?」と笑った。朱元璋は使者に良馬、金幣を持たせて胡深の返還を請うた。陳友定は胡深を殺す気はなかったが、やってきた元の使者が処刑を迫ったため、使者と共に処刑された。享年52。胡深の死を知った朱元璋はこれを惜しみ、使者を遣わして、賜祭を行った。縉雲郡伯の爵位を追封された。
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