陳勝・呉広の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:15 UTC 版)
呉広は滎陽を攻めていたが、三川郡守の李由(李斯の長男)の防戦にあって攻めあぐねていた。そのうちに周文は敗走し、秦軍は呉広の軍に迫ってくる。呉広の諸将は、田臧を中心としてひそかに陰謀をめぐらしていた。 「呉広将軍は兵の使い方が下手だ。このまま秦軍と衝突して勝てるわけがない。呉広将軍を殺害して、指揮権を奪おう」 田臧らは呉広を殺害して指揮権を奪い取り、陳勝に呉広の首を送った。陳勝はやむなく暗殺を正当だと認め、田臧を令尹(宰相)・上将とした。しかし、田臧も章邯の前に敗れ、戦死した。 章邯の破竹の進撃は続いた。各地で反乱軍を破った章邯は、ついに陳勝の本拠である陳にむかって進軍し、まずは張楚の上柱国の蔡賜(房君)を討った。さらに陳の西方で張楚の張賀と交戦し、陳勝も自ら張賀を援けようと出陣するが敗北、張賀は戦死する。 二世2年(紀元前208年)12月、ついに陳勝は逃げ出して汝陰へ、ついで下城父へ到ったが、そこで自分の御者である荘賈に殺された。反乱はわずか6カ月で鎮圧された。 項梁らは後々陳勝と連携するつもりであったが、この報を聞いて作戦の変更を余儀なくされた。
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