社稷壇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 06:00 UTC 版)
近世の明帝国、清帝国、大南帝国、大韓帝国においては、社稷壇は社壇(社=土地神を祭る)と稷壇(稷=穀物神を祭る)のふたつから構成された。社稷壇の上には、五色土と呼ばれる以下に示す方角の辺境から献上された五色の土が敷かれている(中央は黄色、東は青色、南は赤色、西は白色、北は黒色)。これは、陰陽五行の思想によって五色は万物、すなわち天下すべての土地を指し、「普天之下、莫非王土」(世界に天子・皇帝の領有しない土地はない=世界の全てが皇帝の領土である)という意味である(中華思想)。 日本では、大正期の渋沢栄一『武士と算盤』(1916)が「徳川三百年の社稷」のように表現し、また権藤成卿が社稷型封建制を理想として共済共存の共同体としての「社稷国家」を唱えたように、古代~近代にいたるまで、社稷は周代の封建諸侯国の国体を指す語として受け入れられていた。日本において国の社稷壇を建立し、天皇が国家行事として社稷祭祀を行った例はなく(九条兼実のように社稷を国家・国体の意味で使用した例はある)、徳川氏の私的な祠堂として、湯島聖堂内に神農廟が設けられたのみである。なお、中国暦における社を祭る日=「社日」(しゃにち)または「戌の日」(いぬのひ、春分3/20ごろ及び秋分9/23ごろの直前または直後の戌の日、春社・秋社ともいう)の概念は、春・秋の彼岸と重なる形で日本でも取り入れられた。春分・秋分は太陽暦に基づく祝日であるため、春社・秋社もまた、中国由来の旧暦(太陰太陽暦)では移動祝日となる。令和3年(2021)の春社は旧2/03(3/15月)、秋社は旧8/17(9/23木、秋分当日)であった。
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