越南の社稷とは? わかりやすく解説

越南の社稷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 06:00 UTC 版)

社稷」の記事における「越南の社稷」の解説

呉士連(ゴーシーリエン)『大越史記全書』は、中国宋太祖開宝元年(968)に丁氏大瞿越国先皇である丁部領ディンボリン)が華閭社稷壇ホアルー社稷壇)を建立したのがベトナム越南)の社稷祭祀始まりという。丁朝いらい、ベトナム社稷祭祀国家大祭であるが、阮朝時代には社稷壇そのもの孔子廟文廟文聖廟または聖堂とも呼ばれたと共に地方各省にも置かれ、現在も中越国境の「クアンニン省モンカイ市広寧省街城舗)の社稷祭祀」(ベトナム政府宗教班主頁)などのように地方祭祀継続されている。国の社稷壇について、黎貴惇(レークイドン)『見聞小録』は、黎氏大越国洪徳年間黎聖宗(レータイントン)により建立されたと伝えられる昇龍社稷壇ハノイ社稷壇)の規模構成記述する黎聖宗死後、黎氏大越国皇族間の争い外戚による簒奪皇族と外戚内戦外戚同士内戦相次いだ黎朝莫朝→黎内戦→鄭阮内戦→鄭西山内戦→西山朝→阮西山内戦→阮朝)。ハノイ社稷壇社壇/サアダン、稷壇/タクダン)は黎貴惇による記録後まもなく(黎愍帝退位1788年以降に)完全に破壊されて、その位置もわからなくなっていたが、2006年11月ハノイ市内の新設道路工事中にサアダン(社壇)の遺構発見されハノイ市河内城舗)のフオン・サアダン(社壇Phường Xã Đàn)やドゥオン・サアダン(社壇路 Đường Xã Đàn)などの地名になっているまた、大南寔録正編 』(第一紀)は、富春社稷壇フエ社稷壇)は阮氏越南国大南帝国)の阮世祖/グエンテートー(阮福映/グエンフオクアイン、嘉隆帝/ザロン帝)が嘉隆四年(1805-1806)に建立したと記す。フランス統治下においても破壊されず、一部トゥアティエンフエ省フエ市(承天化省化城舗)のフオン・トゥアンホア(順化Phường Thun Hóa)に現存し2008年以降トゥアティエンフエ省によりフエ社稷祭祀秋社)が実施されている。トゥアティエンフエ省社稷祭祀クアンニン省同様に現在では地方祭祀として国家共産党政府宗教班)の公認受けて存続していると考えられるベトナム星座では、天球黄道十二宮天蝎宮さそり座)に属す房宿さそり座π星などからなる)を冠に見立て心宿アンタレスなどからなる)を丸い背中見立てて、この二宿をあわせて神農Thn Nông)と呼び社稷神(穀物神)として尊崇した。このベトナム星座中国星座青龍相当する。『大越史記全書』に記載されベトナム神話によれば氏文郎国の最初の王である雄王/フンヴオン(雄王一世=涇陽王/キンズオンヴオン)は、炎帝神農氏初代である帝石年の四世孫(三世孫である帝明の子)であり、龍身であったベトナム革命指導者ホーチミン胡志明)は、広州滞在時に晩年孫文交流があり(1924-1925)、孫文大革命家と呼んで尊敬していたが、恐らくは孫文を祭る「中山堂」が中国の社稷である北京社稷壇中に置かれてしまったために、ベトナム人としての立場から「中山」の名を避けて孫文のことは必ず「孫文先生」または「孫逸仙先生」と呼んだ

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