越南の社稷
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呉士連(ゴーシーリエン)『大越史記全書』は、中国の宋太祖開宝元年(968)に丁氏大瞿越国の先皇である丁部領(ディンボリン)が華閭社稷壇(ホアルー社稷壇)を建立したのがベトナム(越南)の社稷祭祀の始まりという。丁朝いらい、ベトナムの社稷祭祀は国家大祭であるが、阮朝時代には社稷壇そのものは孔子廟(文廟、文聖廟または聖堂とも呼ばれた)と共に地方各省にも置かれ、現在も中越国境の「クアンニン省モンカイ市(広寧省芒街城舗)の社稷祭祀」(ベトナム政府宗教班主頁)などのように、地方祭祀が継続されている。国の社稷壇について、黎貴惇(レークイドン)『見聞小録』は、黎氏大越国の洪徳年間に黎聖宗(レータイントン)により建立されたと伝えられる昇龍社稷壇(ハノイ社稷壇)の規模や構成を記述する。黎聖宗の死後、黎氏大越国は皇族間の争いや外戚による簒奪、皇族と外戚の内戦、外戚同士の内戦が相次いだ(黎朝→莫朝→黎莫内戦→鄭阮内戦→鄭西山内戦→西山朝→阮西山内戦→阮朝)。ハノイ社稷壇(社壇/サアダン、稷壇/タクダン)は黎貴惇による記録後まもなく(黎愍帝の退位=1788年以降に)完全に破壊されて、その位置もわからなくなっていたが、2006年11月、ハノイ市内の新設道路工事中にサアダン(社壇)の遺構が発見され、ハノイ市(河内城舗)のフオン・サアダン(社壇坊 Phường Xã Đàn)やドゥオン・サアダン(社壇路 Đường Xã Đàn)などの地名になっている。また、『大南寔録正編 』(第一紀)は、富春社稷壇(フエ社稷壇)は阮氏越南国(大南帝国)の阮世祖/グエンテートー(阮福映/グエンフオクアイン、嘉隆帝/ザロン帝)が嘉隆四年(1805-1806)に建立したと記す。フランス統治下においても破壊されず、一部がトゥアティエンフエ省フエ市(承天化省化城舗)のフオン・トゥアンホア(順化坊 Phường Thuận Hóa)に現存し、2008年以降、トゥアティエンフエ省によりフエ社稷祭祀(秋社)が実施されている。トゥアティエンフエ省の社稷祭祀もクアンニン省と同様に現在では地方祭祀として国家・共産党(政府宗教班)の公認を受けて存続していると考えられる。 ベトナム星座では、天球の黄道十二宮の天蝎宮(さそり座)に属する房宿(さそり座π星などからなる)を冠に見立て、心宿(アンタレスなどからなる)を丸い背中に見立てて、この二宿をあわせて神農(Thần Nông)と呼び、社稷神(穀物神)として尊崇した。このベトナム星座は中国星座の青龍に相当する。『大越史記全書』に記載されたベトナム神話によれば、鴻厖氏文郎国の最初の王である雄王/フンヴオン(雄王一世=涇陽王/キンズオンヴオン)は、炎帝神農氏初代である帝石年の四世孫(三世孫である帝明の子)であり、龍身であった。 ベトナム革命の指導者、ホーチミン(胡志明)は、広州滞在時に晩年の孫文と交流があり(1924-1925)、孫文を大革命家と呼んで尊敬していたが、恐らくは孫文を祭る「中山堂」が中国の社稷である北京社稷壇の中に置かれてしまったために、ベトナム人としての立場から「中山」の名を避けて、孫文のことは必ず「孫文先生」または「孫逸仙先生」と呼んだ。
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