知覧特攻遺品館の設置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 00:43 UTC 版)
「知覧特攻平和会館」の記事における「知覧特攻遺品館の設置」の解説
1960年代から1970年の知覧町は過疎化が進行し、また知覧茶に代表される主要産業であった茶業も嗜好の変化によって苦境に立たされていた。そこで、知覧町は地域活性の起爆剤として、高木の文筆活動によって向上していた知名度にあやかって、知覧特攻観音付近を観光資源として開発を進めることにした。まずは、知覧基地跡地に整備されていた運動公園に休憩所を新築、その2階を特攻隊員の遺品や遺書を展示する「知覧特攻遺品館」として整備することとし、近隣に特攻隊員の銅像「とこしえに」の建立も計画された。知覧町は菅原ら旧日本軍関係者や、旧日本陸軍航空隊陸軍少年飛行兵の戦友会「少飛会」などと連携し全国で寄付を募り、不足分は地方債を発行して調達し、1975年までに完成した。「知覧特攻遺品館」には、第213振武隊として知覧飛行場から特攻出撃するも機体の故障で不時着し九死に一生を得た、元特攻隊員で名古屋市役所職員の板津忠正が集めた特攻隊員の遺影や遺品や遺書が展示されることとなり、のちに板津は名古屋市役所を早期退職して知覧の「特攻遺品館」の事務局長に就任し、施設の維持管理とともに、まだ収集できていない陸軍航空隊特攻隊員の遺影や遺品などの収集を行った。知覧町も全国都道府県役場に協力を依頼、「陸軍特攻隊員御遺族芳名録」を作成し板津の収集作業を支援している。 「特攻平和観音堂」と隣接する知覧町の護国神社においては、毎年、知覧地区出身の戦没者の慰霊祭が開催されていたが、「特攻平和観音堂」が建立されると、毎年7月28日に護国神社の慰霊祭と夏祭りが一体化した「特攻観音夏祭り体育大会」が開催されるようになった。このイベントは、従来から行われてきた知覧地区出身の戦没者の慰霊祭と、知覧地区出身の戦没者ではない特攻隊員の慰霊祭を融合させたもので、さらにその慰霊祭の記念行事として、高校生らによる各種スポーツの競技会を行うようになったものである。しかし、「知覧特攻基地」の知名度が高木の著作などで高まると、慰霊祭に全国各地の特攻隊員の遺族や戦友会関係者が参列するようになり、参列人数が増加し、参拝者の要望もあって酷暑を避けて「特攻機の出撃がもっとも多かった月」として5月の28日に夏祭りとは切り離した慰霊祭のみが開催されるようになった。さらに、1974年に「とこしえに」が完成すると、開催日を参列者が休暇を取りやすいゴールデンウィーク中の5月3日に変更し、名称も「知覧特攻基地戦没者慰霊祭」と改められた。当初の参列者は鳥濱や菅原ら関係者十数名に過ぎなかったが、「知覧特攻基地戦没者慰霊祭」となって「特攻遺品館」が完成し、知覧町(現在は南九州市)あげての大規模なものになってからは、観光客が激増するのに併せて、慰霊祭の参列者も増え続けて、参列者が1,000名を超えるような大きな催しとなっている。1977年には、鳥濱と『基地の母』を歌った歌手の菊池と「岸壁の母」端野の3名が、「知覧特攻基地戦没者慰霊祭」に参列する様子が、読売新聞などの全国紙に取り上げられ、知覧町の町報にも大きく取り上げられている。 このように、知覧町は特攻を観光資源として観光地化を進めており、その経過で「特攻平和観音像」建立の発起人として、自らガリ版刷りで案内状を印刷するなど主導的な立場で、特攻隊員の慰霊・顕彰に尽力し成果を挙げていた菅原 ら特攻作戦を推進した旧軍人とも良好な関係を築いていた。知覧町の住民も、慰霊祭などで知覧を訪れる旧軍人を表立って批判することはなかったので、旧軍人や特攻には徹底して批判的であった高木は次第に苛立ちを募のらせていく。当時の旧軍人と知覧町の関係については、菅原らの「知覧特攻基地戦没者慰霊祭」の参列がたびたび知覧町の町報で報じられており、良好な関係がうかがえる。高木が「知覧特攻遺品館」を訪れた際には、特攻の概要の音声説明に高木の著作の記述の一部が無断で使用されていたり、また遺品の展示の仕方や施設の運営のあり方も高木の理想とはほど遠かったため、「特攻遺品館は、低俗、後進意識で運営されている」「特攻を観光化して不潔」「特攻美談、浪曲調の哀話では遺品館は軍国主義遺品館となります」などと激しい言葉で非難、また以前は懇意にしていた「なでしこ隊」の元女学生らが出版した「知覧特攻基地」という著作を「私の著作に反論し、特攻を肯定する著作だ」と激しく非難した。ただし、「知覧特攻基地」は「なでしこ隊」の女生徒自らの戦中戦後の手記や、特攻隊員の遺書等をまとめたもので、具体的な高木に対する反論の記述はない。 一方で、高木が著書の中に掲載した「なでしこ隊」の女学生が作ったとする短歌が、実は高木自身が作ったものであり、短歌の作者として実在の女学生の名前を勝手に使用していたということが判明したり、当初は快く高木の取材を受けていた鳥濱が、話したことと著作の記述があまりにも違っていたり、著書には記述しないと約束していたことを記述されたりしたことが続いたため、不信感を募らせてすっかり取材嫌いとなってしまい、後年は高木を含むジャーナリズムに関係する人間の取材を「あんたらに話すことはなにもないよ」と一切拒否するようになってしまった。鳥濱は心を許していた元特攻隊員に「世の中には我が事ばかり考えて、人様の迷惑は顧みない人が多い」とこぼしていたという。高木が激しい言葉で非難した「知覧特攻遺品館」においても、高木が自身の著作の販売を申し入れしたところ、当時の館長がその申し入れを拒否しているなど、高木と知覧町の人たちは、最後には完全に袂を分かつこととなった。その後、町外れから観音像まで続く灯籠が建てられるなど、さらに整備されて、知覧には多くの観光客が訪れるようになった。
※この「知覧特攻遺品館の設置」の解説は、「知覧特攻平和会館」の解説の一部です。
「知覧特攻遺品館の設置」を含む「知覧特攻平和会館」の記事については、「知覧特攻平和会館」の概要を参照ください。
- 知覧特攻遺品館の設置のページへのリンク