由来とされる物語
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「高安 (高畠町)」の記事における「由来とされる物語」の解説
昔、高安は田地や人家が少なく山に囲まれていて、東北方の山が切れる道を除いては人が通行する道がなかった。こうした、山間地の村だったため役人は村の存在に気付かず、作り取りで年貢の必要ない生活をしていた。しかし平安初期の文徳天皇在位の時代(850~858年)、役人が家来を連れてやってきて、「今まで年貢を納めなかったことは許す代わりに、天子の召使いとして11歳までの子供を毎年貢物として捧げるよう」と云い渡し帰った。こうして、毎春秋(3月、9月)に子供を一人ずつ捧げるようになり、村の活気は失われた。ある春の夕方、11歳の娘を貢物に捧げる家が決まり悲しみに包まれた村に、どこからか座頭(盲人琵琶法師の当道座のうちの1つの階級)が現れ、「都から参詣に来たものの、道に迷ったため案内して欲しい。また、もう夕方のため泊めて欲しい」とお願いした。それに対し、主人が「今晩の2時に人年貢として娘を差し出さなければいけないので泊められない」と伝えた。それでも疲れ果てていた座頭は、「庭の片隅でも‥」と懇願したため、同情した主人は一飯振る舞い、馬小屋の2階に泊めた。夜が更けて2時ごろになると、役人と家来が大勢やって来たので、村人は赤飯し、役人達は能のようなものを舞った。その文句には「甲斐国の三毛犬四毛犬にこの事必ず沙汰すな、語るな、聞かすな」とあった。そうして娘は連れ去られ、村人達は愁傷した。座頭は一晩中寝ることなく様子を窺っており、夜が明けると主人の元へ行き「昨夜のことを事細かく聞いていたが、あれは天子が遣わした役人では無く、人間の所業とも思えない。さらに、舞っていたのは能ではなく、途中の文句は甲斐二十一社の1つ八代郡の南宮宝性大神社の2犬。これを恐れているということは、狐狸の類に違いない。一刻も早く甲斐国にて2犬を借り退治しなさい」と告げ、願書を用意した。すぐに村人2人が甲斐国へ向かい南宮宝性大神社の宮守役人に懇願し、2匹の犬を借りてきた。この犬は、唐犬に似て両耳が垂れて頭の毛が長い逞しい体つきの犬だった。座頭はなおも村に滞在していて、退治のための指揮をしていた。村人2人を役所に遣わし、捧げた子供に食べさせて欲しいとご馳走を渡させた。また、役人達にもご馳走を振る舞いたいが水物のため持参できないと伝えた。後日、差し上げたいご馳走を沢山作ったが持参できないため村へ来てほしいと懇願した。すると、明晩30人弱の役人などがやって来た。そこで、村で一番大きい家に魚を煮た鍋を2ヶ所に置いて匂わせ、大きい窓には外から板を打ち、壁にも板をはり、戸口を1ヶ所だけにして、三毛犬四毛犬を金櫃に入れ退治に備えた。そして役人達はやってくるなり、早々に持参していた槍や狭箱などおいて奥屋敷に向かった。役人はご馳走なので燈火は村人に云うので、燈火を消して戸口を閉めるや否や凄まじい音をたてて役人達は食べ始めた。塩辛い魚を食べ始めると、どんどん酒を飲み酔っ払っていった。そして様子を見計らい、三毛犬四毛犬を櫃から出して戸口まで連れて行き、役人に「あつものを差し上げたい」と云い戸を開き犬を中に入れ、戸口をびっしりと閉じた。犬は中に入ると否や大将役人に飛びかかり食い付いた。くうくうという音は聞こえたものの、さすが年経た古狸だけあり弱る気配もなく大乱闘となった。その他の狸は酔っ払い前後不覚の状態のため逃げ惑い、窓にぶつかるものもいれば、壁に当たって逃げようとするものもいた。しかし、板を打ちつけてあったため逃げることができず狼狽えていた。しかし、大勢の狸に対し犬2匹で相手をしなければいけなかった為、すぐに勝負がつくことはなかったが、三毛犬四毛犬は2匹の大将大狸を食い殺した。残りの狸も戦意を失い、喉首を食い千切られ全滅。座敷が静かになったところで村人達は燈火を点け中に入ると、仔牛ほどの大きさの古狸やその子分達が血まみれで死んでいた。しかし、何年も生きていた古狸を相手に大乱闘となったこともあり、三毛犬四毛犬も数カ所傷を負っていた。村人達は急いで介抱したものの、間も無く息を引き取った。その時、紫雲が棚引き「三毛犬四毛犬を葬り、祠堂を建て鎮守と仰ぐべし。そうすることで村は悪魔から守られ、これから生まれる子は無難に育つ」との旨が紫雲の中から聞こえた。そして村人達は手厚く犬を葬り、そこに小宮を建て、犬の宮子易聖真子両大権現として崇めるようになった。また座頭の正体は愛宕山の地蔵尊で、村を危機から救うため座頭の姿に返信し村人の前に現れた。
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由来とされる物語
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昔、高安に中々猫が育たない庄屋がいた。様々な種類の猫を飼ったものの、1年程経つと姿を消して行方がわからなくなっていた。困った庄屋の夫婦は、丈夫な猫を授けて貰うため犬の宮へ日参するようになった。するとある日の夕方、庭先に1匹の猫が迷い込んできた。白斑の子猫で人懐っこく寄り添ってくるため夫婦は喜び、犬の宮からの授かりものだと大切に育てた。1年経つ頃には夫婦によく懐き、更に利口だったため人の言うことを聞き分けていた。その為、夫婦は我が子のように育てた。しかし、ある時庄屋のおかみさんが正体不明の病に罹り、いくら看病しても一向に容態は良くならなくなった。すると、猫は片時もおかみさんの傍を離れないようなり、用をたす時も常に走り寄り、終わるまで目を光らせるほどだった。流石に気味悪く思ったおかみさんは、夫へ相談すると「考えがある」と作戦を練った。そしてある日、おかみさんが着物を着て便所へ向かうといつものように猫が付いてきた来たので、「恩を仇で返す畜生め、成敗してやる」と隠し持っていた刀で首を打ち落とした。「ギャッ」と一声あげ、その首は天井に飛び上がり瞬く間に大蛇の鎌首に噛みつき、ドサっと血まみれで落ちてきた。呆気に取られた庄屋は「悪いことをした。こんなにも忠義な猫を殺すことはなかった」と嘆き涙を流しながら首を抱いて謝った。夫婦共々悲しみ、せめてもの供養をしようと人を葬るのと同じように篤く弔った。 その後、1376年(永和2年)にこの猫の為に建立された祠堂が猫の宮。高安の人々は酒十盃と豆腐十丁を持参しお参りすると云う。尚、退治した大蛇は高安から北東へ約600メートルの場所に位置する小郡山部落に埋められ、その塚は蛇壇という史跡として残っている。また蚕の天敵である鼠を獲るのが猫のため守り神として猫の宮は養蚕の神様として参詣されていた。当初、猫の宮は小さな石堂だったが近郷から養蚕の神様として参詣する者が増えたため木造の御堂が建てられた。また、1828年(文政11年)8月には現在の御堂に再再建された。(高安誌 33-34)しかし、養蚕が廃れてくると子猫や子犬を捨てる人が後をたたなくなった。以前は猫の神様が良いところに縁づかせてくれるだろうと鰹節が一本添えられてたと云う。そのため、犬や猫を捨てないようにと立て札が立てられた。 高畠町郷土資料館長の推測では上述した2つの伝説は律令時代、中央集権の不本意な政策に抵抗する村人の姿を犬や猫に託し、役人を狸や大蛇に見立てたなのでないかと云う。
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