球場設備の歴史
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1937年(昭和12年)9月11日 - 開場。内野二階建てスタンドを持つ野球場として注目を浴びた。完成時の両翼は85m。中堅は114mとされている。同時に初代のスコアボード完成。服部時計店がタイマーを提供した。 1945年(昭和20年) - 3月9日深夜の東京大空襲により初代スコアボードの一部が焼失。 1949年(昭和24年) - スタンドの盛り土部分を改築し2代目スコアボード完成。両側にはライオンの商品が書かれるようになった。 1950年(昭和25年) - ナイター設備完成(照明塔の数は内野4・外野4)。 1953年(昭和28年) - 外野のポール付近に「アンラッキーネット」設置される(1957年(昭和32年)に撤去)。関根潤三によれば大リーグとの親善試合で、本塁打を打たれないようにするため。 1958年(昭和33年) - グラウンド拡張工事が完成し、両翼90m、中堅120mに。同時に外野フェンスに距離表示の数字が書かれるがこの時点ではヤード・ポンド法によるものだった。両翼の拡張によりスタンドが削られ、中堅から右中間、左中間の外野フェンスの高さ1.9mに対して、ポール際は最長4.7mと極端に高い特徴的な構造となる。 1959年(昭和34年) - 外野フェンスの距離表示がメートル法に変更される。 1961年(昭和36年) - 外野グラウンドの芝生を張り替える。マウンド下にスプリンクラー埋設。 1962年(昭和37年) - バックスクリーン裏に、ホームラン噴水が設けられる(1970年(昭和45年)に撤去)。 1965年(昭和40年) - 内野グラウンドに芝生を貼る(いわゆるダイヤモンドターフ。初期は一部が土だが後に全面芝となる)。同時に内野ファウルゾーンの一部とバックネット裏にも芝を貼ることとなる。 1967年(昭和42年) - フェンスに危険防止のため金網を張る。 1968年(昭和43年) - 記者席を拡張し屋根を取り付ける。内野席をプラスチック椅子式に変更。外野両翼にカネボウのロゴマークをかたどった大型広告が設置される。 1969年(昭和44年) - 内野二階部分のスタンド外壁塗装を白色に変更。スコアボードの両側がライオンからパイオニアの広告に変更される。 1970年(昭和45年) - 内野二階席が拡張され新設部分は旧来のものより席数が多くなり(いわゆるジャンボスタンド)、照明塔も小さいものが2つ×2基に変更される。同時に日本初の全電光式スコアボードが完成。基本コンセプトは手書きだった2代目がベース。またブルペンが一塁側・三塁側のファウルゾーンから両翼の内野・外野スタンドの接合部の真下に移動。スコアボードの真ん中下の広告も大正製薬からパイオニアに変更される。 1971年(昭和46年) - フェンスがラバーフェンスとなる。バックスクリーン裏に可動式のスクリーンが設置される。 1973年(昭和48年) - それまで存在していたカネボウの大型広告に変わって、風速風向表示塔(通称エキサイティングタワー)がスコアボード脇に二機設置される。レフト側は風速、ライト側は風向を表示。ブリヂストンが提供した(1986年(昭和61年)からキリンビール)。 1974年(昭和49年) - 外野スタンド照明が大きいもの2基に改築され同時に内野の2基も改築される。人工芝設置のテストのため内野ファウルゾーンの土部分を人工芝に張り替える。 1976年(昭和51年)3月1日 - 日本初の全面人工芝グラウンド完成。 1979年(昭和54年)オーロラビジョン設置のテストのため全電光式スコアボードの自由文字表示部分をモノクロ映像表示可能のものに改良。 外野フェンスのバックスクリーン付近から長さ70m、幅4mのアンツーカー(金網)を設置。 1981年(昭和56年) - オーロラビジョン設置(三菱電機が提供した)。 1984年(昭和59年) - 人工芝を直毛型のものからオールカール型のものに張り替える。両翼の広告が6社ずつの12社から7社ずつの14社に変更される(球場広告の歴史も参照)。 1987年(昭和62年)11月8日 - 閉場。1988年(昭和63年)2月までに解体。跡地は駐車場になり、現在は東京ドームホテルや東京ドームシティが建つ。
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