球場解体前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 04:44 UTC 版)
「広島市民球場 (初代)」の記事における「球場解体前」の解説
「広島のサッカースタジアム構想」も参照 この土地は、広島平和記念公園・原爆ドームの平和祈願地区、広島そごう・基町クレドなどの商業地区に接し、広島市中央公園の中にある広島の中心地で、現球場の集客人員に匹敵する年間150万人の集客が見込める土地利用とすることとした。ただし都市公園法の制限を受け、またこの場所が国有地であるため、建てられるのは文化施設・スポーツ施設・防災施設などに限定された。その中で、公園、サッカー専用スタジアムに改修しサンフレッチェ広島(サンフレ)のホームスタジアム化する計画、スポーツ広場、水族館、観覧車などさまざまな計画が挙がったが、世界遺産である原爆ドームに隣接しており、危機遺産への登録を回避するため、大型施設の建設は回避されるようになった。 まず2007年4月に「平和祈念堂」「ビオトープ型緑地公園」「多目的広場を中心とした都市公園」の3案から最優秀案を選ぶことが発表された。2007年8月23日、選考委員会は「ビオトープ型緑地公園」を一度は選んだものの、一部委員から「市民参加が薄い」と異議が出たため、最終的に「ビオトープ案」の他、「平和祈念堂案」を加えた2案を優秀案とし、最優秀案は「該当なし」とした(「平和祈念堂」は費用を寄付で賄うとしていたため現実性を担保出来ていなかった)。一部市民からは「一度は落ちた案を優秀案として復活させるのはおかしい」という指摘がなされたため、広島市は優秀案を提案した各事業者に対して、「周辺商業施設や商店街と連携したにぎわい創出などを求める」として2案の修正を要望した。 これに対して、2007年8月、選考委員会での協議が進む中、広島市中央部商店街振興組合連合会は「広島市が選考対象とした3案は、いずれも跡地にふさわしくない」とするアンケート結果を広島市に提出した。さらに2008年2月には、広島商工会議所が、球場跡地の一角に位置する自らの建物について移転を具体的に検討する考えを表明したため、同年8月、広島市は前年の選考委員会で選ばれた2つの優秀案に、商工会議所の提案を取り入れた球場跡地利用方針を発表した。この利用方針では、一塁側正面入り口側に商工会議所ビルを、一塁側外野側に劇場施設を設置し、折り鶴保存展示施設を公園の中心に据え、レストハウスを正面入り口付近に作り、球場は解体するというものだった。しかし、2009年4月に予定された新球場完成時期が近づくと、一部市民の間で「戦後の広島復興の象徴」として球場の保存・活用を希望する声が増え、2008年11月には解体反対署名(1万人分)が広島市に提出された。 2009年1月、広島市は球場跡地計画を発表した。球場解体の基本方針は変えないものの、優秀案にあった折り鶴展示保存施設の「保存」機能を取り除き、さらに前述した一部市民の声に応える形で、ライトスタンドの一部約3000席を「戦後復興のシンボル」として保存することとした。その年、広島市は2度に渡り、球場跡地計画具体化のための検討費用を当初予算案に計上したが、依然、折り鶴「展示」施設が含まれていることに反発した市議会は当該予算を減額した修正予算案を可決した。このように跡地計画の具体化が進まなかったため、当初は2009年9月末で予定されていた球場閉鎖は延期され、同年度末まで暫定利用が行われることとなった。 2010年3月、市議会3月定例会において、球場解体費用を認め、球場運営費を盛り込まない予算案が可決された。一方で球場解体に必要とされる球場廃止条例案は否決されたために、同年の3月31日で一時利用を終了した後に予備費などを使う形で、同年5月1日より一般利用が再開、同年7月31日まで暫定利用が延長された。6月には「子供達が同年の夏休みの間は球場を使える様に配慮して欲しい」との市民からの意見により、予定されていた閉鎖時期を「7月31日」から「8月31日」に延長した球場廃止条例案が市議会6月定例会に再提出され、可決された。 2011年4月14日、秋葉忠利に代わり広島市長となった松井一實は、旧広島市民球場跡地の利用計画を見直すことを表明。球場は予定通り解体する一方で、折り鶴展示施設等が含まれていた従来の利用計画は白紙撤回とすることを発表した。
※この「球場解体前」の解説は、「広島市民球場 (初代)」の解説の一部です。
「球場解体前」を含む「広島市民球場 (初代)」の記事については、「広島市民球場 (初代)」の概要を参照ください。
- 球場解体前のページへのリンク