広島市民球場 (初代)
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初代の広島市民球場(ひろしましみんきゅうじょう)は、広島県広島市中区基町の広島市中央公園内にかつて存在した野球場。広島市が所有および運営管理を行なっていた。通称は「市民球場」。
- ^ 広島市-2011年04月14日 松井市長就任記者会見
- ^ “カープファン聖地の右翼席、解体始まる”. 読売新聞. (2022年6月2日) 2022年6月2日閲覧。
- ^ “公式サイト”. HIROSHIMA GATE PARK. 2023年11月4日閲覧。
- ^ 中国新聞社・中国放送共同発行『さよなら ぼくらの広島市民球場』 ISBN 978-4885173554 P.12-15より
- ^ 交通機関が未発達だった当時、月曜日と金曜日は移動日として試合は行われなかったため、日曜日はダブルヘッダーとなることが多かった
- ^ 1949年の基町、ならびに木造住宅の分布図 - 中国新聞2010年7月24日付記事『被爆65年 ヒロシマ基町 復興史映す街並み 戦災者支え近代化へ先駆』より。この時点で建設予定地とされた「基町」とは、広島城西側(実際に建設された旧二部隊営庭跡地の北側)にあたる。
- ^ ヒロシマの記録-平和都市法50年 Archived 2012年7月27日, at the Wayback Machine. - 中国新聞1999年6月22日付記事より。戦前、軍施設が密集していた基町は原爆投下により壊滅、終戦直後は原野となっていたが、1946年6月、戦災者や引き揚げ者の緊急対策として市営住宅が建設された。これらは1棟に10戸連続だったことから、通称「十軒長屋」と呼ばれた。
- ^ 原爆により荒廃した広島市で雨露をしのぐ住まいを手にするのは当時大変困難であり、十軒長屋には入居希望者が殺到した。終戦から6年を経た1951年においても、市営住宅への入居希望者2,378件に対して入居が認められたのは僅かに67件であり、競争率は35倍に達していた。
- ^ 広島市議会の球場建設委員会の委員長だった任都栗司は、球場建設が正式決定する以前から石本建設設計事務所へ設計を依頼していた。だが、任都栗の個人責任での設計依頼であり、仮に新球場建設がなされなかった場合、設計費用は任都栗の個人負担になりかねなかった。なおこの設計にはセリーグ会長の鈴木龍二や、小西得郎、カープ監督の白石勝巳の意見が反映された。参考・河口豪著『栄光の広島カープ風雪25年』(恒文社、1975年)P82より
- ^ 1955年12月、カープ球団は積もり積もった借金踏み倒しのため、母体である「広島野球倶楽部」を解散させ、それに代わる新会社「株式会社広島カープ」設立に踏み切る。しかし親会社が一旦解散することは「所属選手の保有権を失うこと」、「リーグ加盟金を新たな親会社が支払い直す」ことを意味した。この時、東京に居た球団代表の河口豪は、スポーツ紙の記者達から「広島野球倶楽部」解散について問われた際に、それを否定するため、「そんなバカげたことはない。新球場の設計が九分どおり出来ている以上、解散はありえない」という苦し紛れの弁明をした上で、居合わせた任都栗司と共にそれまで伏せられていた球場設計案を披露した。
- ^ このように全く予定外の発表であったが、記者達は思わぬスクープを手にしたと喜んで帰社してしまったため、解散についてはそれ以上問われなかったという。なお、「広島野球倶楽部」を引き継いだ「株式会社広島カープ」は1956年1月5日に発足したが、設立直後に開かれたセ・パ両リーグ理事会では「解散ではないのか?」とパリーグ側から異議を唱える声が出ており、それに対しては「会社の名称変更である」と押し切っている。参考・河口豪著『栄光の広島カープ風雪25年』(恒文社、1975年)P85-86より
- ^ 交渉過程で、最後までナイター球場建設に反対していた大蔵省の事務次官が詰め腹を切らされる形で左遷される悲劇を生んだ。当時、大蔵省との交渉にあたった広島市議の任都栗司は、「確かに相手(大蔵省)の言い分は筋が通っていた。でもカープは広島市民の心の糧だったから・・・」と述懐している
- ^ 中日球団からの紹介で、当初、建設会社はナゴヤ球場建設の実績がある熊谷組に依頼する予定だった。そのため熊谷組に対し、広島市建設事業参画の第一歩として当時比治山に建設予定だった仏舎利塔が任されることになった。ところが仏舎利塔は基礎工事がなされただけで建設は始まらず、事業そのものが頓挫してしまった。参考・河口豪著『栄光の広島カープ風雪25年』(恒文社、1975年)P82-83より
- ^ 中日球団は熊谷組の他、広島の地元請負業者で工事を進めるのであれば増岡組を筆頭候補に挙げていた。奇しくも50年後、増岡組は同じく広島を発祥地とする五洋建設と共に、新しい本拠地となるMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島の建設に携わることになる。参考・河口豪著『栄光の広島カープ風雪25年』(恒文社、1975年)P92より
- ^ 「待望のナイター球場『市議奔走し実現 球団財政救い 市民に夢と希望』」 - 中国新聞1999年6月19日付記事より
- ^ 完成当時、『230万燭光の日本一明るい野球場』と謳われた。最も明るい投手と捕手の間(投捕間)の照度は1300Lx
- ^ 当時のフランチャイズ制は仮のもので、球場で登録されていた。
- ^ 旧広島市民球場53年の歴史に幕 カープOBら最終試合 47NEWS 2010年8月31日閲覧
- ^ 広島市によるプレスリリース
- ^ 旧広島市民球場の解体本格化 重機で1塁側から始まる 47NEWS 2010年12月20日
- ^ 以下発言内容:「球場の両翼を広げること、内野にある金網を外野にもしてもらいたい。これじゃホームランがぼんぼん出て面白くないよ。こういう点が改められれば結構な球場ですよ」- 中国新聞1957年7月23日付記事より
- ^ 他では唯一明治神宮野球場が2階スタンドを増築しているが、これは1階スタンド外側へのみの増築。
- ^ 辻英一「設計者解説 : 広島市民球場」『建築雑誌』第103巻第1278号、社団法人日本建築学会、1988年10月20日、NAID 110003776916。
- ^ ①1階スタンド中腹の出入り口から②横通路を移動し③急傾斜の1階スタンドをよじ登り、幅の狭いコンコースまで到達④コンコース上の2階スタンド入口まで横移動⑤入口からさらに階段で2階スタンドへ登る、という順路を踏まねばならなかった。
- ^ 新球場建設に関する意見交換資料 - 広島市ホームページより
- ^ 『さよなら ぼくらの広島市民球場』 ISBN 978-4885173554 P.13より
- ^ 公認野球規則上では、ホームチームが1塁側でなければいけないという規則はない。現在の本拠地においても、札幌ドーム、宮城球場、西武ドームでは3塁側をホームチームのベンチにしている
- ^ 『都市と球場の物語』 ISBN 978-4569707891 P.85より
- ^ 参考文献:『広島東洋カープ(金山次郎監修)』ISBN 4891740124 P.111より
- ^ 参考・河口豪著『栄光の広島カープ風雪25年』(恒文社、1975年)P115-116より
- ^ 新聞などの報道に見る被災地の復興と野球の関連(川崎医療福祉学会)
- ^ 1960年までの「大阪タイガース」時代も「大阪」ではなく「阪神」表記だった。
- ^ 1987年の星野仙一監督就任に合わせ前年までの「CDマーク」(2023年現在のものに相似したデザイン)から筆記体の「」一文字に変更されたが、本球場スコアボードにおいては同年は開幕から暫くは旧デザインのものが使用され、途中から旧デザインから抜粋したような「D」一文字に変更された。しかし翌1988年から帽子と同じ筆記体に再変更された。
- ^ 大洋球団が「横浜大洋ホエールズ」を名乗っていた期間と完全一致している。
- ^ 阪神は1982年にホーム用、1984年にビジター用の帽子デザインが変更になったが、1983年(ホームは1981年)以前のデザインのまま手書きボード最終年まで使用された。
- ^ a b 「江川と対決したかった 新浦寿夫 聞き手:赤瀬川隼」『「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史〈第3巻〉』文藝春秋、1988年、532-539頁。ISBN 9784163629100。
- ^ a b カープを思うあまり!? 市民球場にファンが乱入!/プロ野球仰天伝説186
- ^ 広島総合&広島市民球場:ボクの思い出STADIUM:中日スポーツ 、思い出のスタジアム広島市民球場…2千人暴徒乱入事件、日めくりプロ野球 【8月3日】1975年(昭50)― スポニチ Sponichi Annex 野球、第15回 プロ野球 前代未聞!警備不安による中止 ― スポニチ 、デイリースポーツonline/61歳早すぎる…元広島監督三村氏急死、ドラゴンズ選手がグラウンドで負傷!赤ヘル軍団「広島カープ」との激闘- CBCテレビ、ウォーリー与那嶺氏の「お別れの会」 - 谷沢健一のニューアマチュアリズム
- ^ 9月21日~9月25日の「ラジオサロンdeくにまる」のゲストは風見しんごさん
- ^ 「ヒロシマの2大シンボル」『FLASH (写真週刊誌)』、光文社、2011年8月16日。
- ^ 球史に残る乱闘劇でグラウンドにいたタレントが告白。星野監督に一喝された!?
- ^ 祝!優勝!!広島出身アーティストの曲 【歌謡曲ここがポイント!】
- ^ a b 「風見慎吾vs.星野仙一の激突! 思い出対決 ボクが8年前の砂かけ少年」『近代映画』1983年11月号 pp.38–41、近代映画社。
- ^ ベースボールマガジン社『週刊ベースボール』2008年9月29日号 「広島市民球場小史」P71ページ
- ^ TV Station掲載のさだのエッセイ「もう愛の唄なんて歌えない」より
- ^ “2007 夏・広島から さだまさし”. NHK広島放送局公式サイト. 2014年1月18日閲覧。
- ^ 幕閉じる広島市民球場でカープOB戦 スポーツニッポン 2008年5月19日閲覧
- ^ 広島市民球場10月末まで開放 - 中国新聞2009年1月20日付
- ^ 旧市民球場の設計図など搬出 - 中国新聞
- ^ 市民球場跡地利用計画 関連予算減額し可決 - 中国新聞2009年3月27日
- ^ 旧球場跡地の検討費盛る - 中国新聞2009年9月16日
- ^ 旧市民球場の利用再開 広島市、夏の高校野球に提供へ - 中国新聞2010年4月10日
- ^ 旧広島市民球場解体、緑地広場へ 市議会で廃止条例案可決、47NEWS、2010年06月22日
- ^ 旧市民球場跡地は再検討/折り鶴の保存施設不要 - 毎日新聞2011年4月15日
- ^ a b c d 旧広島市民球場跡地でのイベント開催実績(平成31年3月27日現在)
- ^ ~中央公園(旧広島市民球場跡地を含む)におけるイベント利用について~ - 広島市
- ^ 旧広島市民球場跡地大型バス駐車場の利用開始について - ひろしまナビゲーター
- ^ 旧広島市民球場跡地大型バス駐車場の利用を開始します - 広島市 2015年3月31日
- ^ 広島・平和記念公園にオバマ大統領 安倍首相は旧広島市民球場にヘリで到着
- ^ 世界大会を広島で BMXや3人制バスケ、都市型スポーツ 来年開催、県に打診 /広島 - 毎日新聞
- ^ サッカースタジアム建設 広島で早期実現を!(サンフレッチェ広島公式サイト)
- ^ “松井市長「検討を加速」、広島のスタジアム建設問題”. サンケイスポーツ. (2015年12月7日) 2015年12月22日閲覧。
- ^ 広島市長選、サンフレッチェ前社長小谷野氏は落選。スタジアム建設に暗雲か
- ^ サッカースタジアム建設 広島みなと公園が優位 知事ら一致、年度内に結論
- ^ Hiroshima Peace Memorial Stadium(仮)建設案
- ^ サンフレッチェ移転、広島中央公園検討で一致 年内合意目指す
- ^ “サンフレ新本拠地巡り4者会談 広島、中央公園広場で一致”. 山陽新聞 2019年4月30日閲覧。
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