旧広島市民球場改名後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 04:44 UTC 版)
「広島市民球場 (初代)」の記事における「旧広島市民球場改名後」の解説
2009年4月1日より、「旧広島市民球場」と球場名を改め、木製の看板が設置された。その後、正面部に手書きの看板が追加されている。 継続利用に当たり、経費削減のためにナイター照明の使用を取りやめている。広告看板も当初はそのまま使われたが、その後本体色で塗りつぶされた。 食堂などがあったスペースには、以前旧日本銀行広島支店で展示されていた、原爆の子の像に捧げられた折り鶴が展示されている。 マツダスタジアムでは芝の育成などの観点から初年度の一般利用を制限する方針もあり、当初の新球場完成時だった閉鎖の予定も延びたことで、当初予定では2009年10月いっぱいまでは現球場をJABA広島大会や全国高等学校野球選手権広島大会などに開放する方針を発表、球場跡地案の遅れより、2010年3月末に閉鎖予定が延期。2010年3月の市議会で廃止条例が否決されたことで、同年4月中の休止を挟み、予備費の活用で5月より利用を再開し7月末まで利用期間が再延期されている。2010年も高校野球の県予選で使用された。 2010年6月22日に、当初案の7月末閉鎖を8月末閉鎖に修正。その修正案が可決したことで、2010年8月31日までの使用。翌9月1日に閉鎖と決まった。 2010年7月4日に、閉場月の8月分の利用抽選が行われた。 2010年8月30日に、球場内に保管されてきた球場の設計図などの資料。広島市民球場時代の看板が、広島市公文書館に移された。色紙などは、閉場後の9月1日に移動した。 2010年8月31日、広島修道大学のスポーツサークルが企画したラストゲームが行われた。試合前には最後のスタジアムツアーなどが開催された。ラストゲームには、プロ野球広島カープのOB選手の池谷公二郎・達川光男・長谷部稔・安仁屋宗八・高橋里志などが招待された。試合中に、達川の「コンタクトレンズ紛失事件」などが再現された。試合は15時13分にゲームセットになった。試合終了後にOB会会長長谷部稔による「終球式」が行われた。17時過ぎに木製の「旧広島市民球場」の看板が外された。 2010年9月1日に、初代の広島市民球場は閉鎖された。 同年10月に備品のオークションが行われたのち、11月29日に球場の解体を開始した。2012年2月、旧ライトスタンドの一部を残して解体作業は終了した。 市議会の動きについては、#跡地利用に関する市の動きを参照のこと。 改名後の外観 「旧広島市民球場」の看板 球場正面(2010年) グラウンド全景(看板が塗りつぶされている) 折り鶴展示スペース
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