旧庄内藩士の鹿児島訪問
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「南洲翁遺訓」の記事における「旧庄内藩士の鹿児島訪問」の解説
1870年(明治3年)8月、旧庄内藩主の酒井忠篤は犬塚盛巍と長沢惟和を鹿児島に派遣し、旧薩摩藩主の島津忠義と西郷に書簡を送った。同年11月7日、酒井忠篤は旧藩士などから成る78名を従えて、鹿児島に入った。また、出羽松山藩の15人も、忠篤一行とは別に鹿児島に入った。合計93名は4ヶ月滞在して、軍事教練を受けた。 西郷は、1873年(明治6年)の征韓論争に破れ下野し、同年11月10日に鹿児島に帰った。旧庄内藩士の酒井了恒は伊藤孝継や栗田元輔とともに鹿児島を訪れて、西郷から征韓論に関する話を聞いた。また、赤沢経言や三矢藤太郎も鹿児島を訪れて、西郷から話を聞いている。1875年(明治8年)5月には、庄内から菅実秀や石川静正等8人が鹿児島を訪れた。 1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法が公布されると、西南戦争で剥奪された官位が西郷に戻され名誉が回復された。この機会に、上野公園に西郷の銅像が立てられることになり、酒井忠篤が発起人の1人となった。菅実秀は赤沢経言や三矢藤太郎に命じて、西郷生前の言葉や教えを集めて遺訓を発行することになった。
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