王室領植民地としてのバージニア
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「バージニア州の歴史」の記事における「王室領植民地としてのバージニア」の解説
1624年、バージニア会社の勅許が破棄され、植民地は王室領植民地として王室の統治に移されたが、ジェームズタウンでは選挙で選ばれた代議員がかなりの量の権限を行使し続けた。王室の統治の下で植民地は北方と西方に新たな開拓地を加えて拡張を始めた。1630年、ジョン・ハーベイ総督の下でヨーク川沿いに初めての開拓地が造られた。1632年、バージニア議会はジェームズタウンとヨーク川のキスキアック開拓地を繋ぐ砦を建設し、インディアンの攻撃から植民地を守ることを決議した。この砦はミドル・プランテーションとなり、さらに後にウィリアムズバーグとなった。1634年、ミドル・プランテーション近くに防柵が作られた。この柵はヨーク川とジェームズ川の間の半島を横切って伸び、半島低地部の東側開拓地をインディアンから守った。この柵の内側には牛も飼われた。 1634年にはまたイングランド王の命令でバージニア植民地の中に新しい地方政府の仕組みが作られた。8つのシャイア(shire)が創られ、それぞれに地方政府が置かれた。数年後にシャイアは郡(county)に改められた。8つの郡は以下のものであった。 アッコマック郡(現在のノーザンプトン郡) チャールズ・シティ・シャイア(現在のチャールズ・シティ郡) チャールズ・リバー・シャイア(現在のヨーク郡) エリザベス・シティ・シャイア(現在は廃止) ヘンリコ郡(現在のヘンリコ郡) ジェームズ・シティ・シャイア(現在のジェームズ・シティ郡) ウォーウィック・リバー・シャイア(現在は廃止) ウォロスキオーク・シャイア(現在のアイル・オブ・ワイト郡) 2007年時点では、これら当初の8つのシャイアの内5つは基本的に同じ政治形態(郡)で残っていると考えられるが、400年近い間にその境界は変わってきている。また初期のシティという言葉を含むネーミングにより多少紛らわしい名前になっており、例えば「ジェームズ・シティ郡」や「チャールズ・シティ郡」のような論議を呼びそうな名前になった(現在廃止された「エリザベス・シティ郡」の住民は1952年の住民投票でハンプトン独立市に集約される道を選び、またやはり投票で良く知られ煩わしくない名前を採用した)。 ウィリアム・バークリー総督の統治時期にトランス・アレゲニー地域を探査する最初の意義有る試みが行われた。バージニアのさらに奥深く探査しようという動きは、1644年にオペチャンカナウ酋長が再び率いた虐殺事件で500人の開拓者が殺されたときに中断された。バークリー総督は植民地にタバコ以外の収入をもたらす資源を開発した功績が認められている。例えば、その大規模なグリーン・スプリング・プランテーションでの蚕のためのマルベリーの木の栽培やその他の穀物であり、その場所は現在、ジェームズタウンとウィリアムズバーグ近くに国立公園局が維持管理する大規模未発掘考古学的地域となっている。 バージニアの開拓者の大半はイングランド内戦の間もイギリス王制に対して忠実であったが、1652年にオリバー・クロムウェルが軍隊を送ってバークリー総督を追い出し、イギリス共和国に対して忠実な総督とすげ替えた。新しい総督は中庸なピューリタンであり、地元議会がほとんどの支配権限を実行することを許した。 イギリス内戦で敗れた多くの王党派がバージニアに逃れた。彼らの多くはバージニアで最も重要となる家系となった。王政復古後に、国王チャールズ2世はバージニアが王制に忠実であることを認め、バージニアに「オールド・ドミニオン」(古い領土)という渾名を付け、これが今日でも続いている。 バークリーは最初の任期後もその人気を保っており、共和国支配の終焉と共に総督に復帰した。しかし、バークリー総督の2度目の任期は多くの問題で彩られた。病気、ハリケーン、インディアンの敵対行為および経済的な困難さであり、全てがこの時期のバージニアを苦しめた。バークリーは植民地に専制的な権限を築いた。この権力を守るために14年間というもの新しい議会議員の選挙を拒否し、彼を支持する植民地議会を守った。反乱が深刻な脅威となったときに初めて新しい選挙に同意した。 バークリーは最終的には1676年の反乱に直面した。開拓者達が北方や西方に拡張するにつれて、インディアン達が侵入してくる開拓者への攻撃を始めた。開拓者達が「悪い種族」に対して反撃し暴力で応じたので激しい戦いが起こり、それがさらに暴力を拡大させた。バークリーは開拓者達が戦うのを助けようとはしなかった。多くの開拓者や歴史家達までもバークリーがインディアンと戦うことを拒否したのは毛皮公益に投資していたためだと信じている。大規模な戦闘によってバークリーが頼みにしていたインディアンからの供給が止まった。ヘンリコのナサニエル・ベイコンがインディアンに仕返しをしようという開拓者の民兵を自分で組織した。ベイコンはインディアンの問題だけでなく他の問題についてもバークリーの主要な反対者として大変人気を得た。バークリーはベイコンを反逆者として非難したが、ベイコンが植民地議会に議席を得てそれを平和的に受け入れた後に特赦した。それでも改革が行われなかったので、ベイコンは公然と反乱を起こしジェームズタウンを占領して数ヶ月間植民地を支配した。このできごとはベイコンの反乱と呼ばれた。バークリーはイギリス人民兵の力を借りて元の地位に返り咲いた。ベイコンはジェームズタウンを放棄する前に火を付けて燃やし、その反乱を続けたが、病気で死んだ。バークリーは反乱の残党を厳しく鎮圧した。バークリーが反乱を厳しく抑圧したことに反応してイギリス政府はバークリーを解任した。ジェームズタウンの消失後、植民地の首都は一時的にジェームズ川とヨーク川からほぼ等距離でバージニア半島の高台にあるミドル・プランテーションに移された。 この世紀初期にヘンリカスでの失敗に続いてフランシス・ニコルソン総督の下で、バージニアでは初めての恒久的高等教育機関が造られた。1691年、植民地議会の要望と支援で、植民地の宗教的指導者であるジェイムズ・ブレア牧師がイングランドに戻り、1693年にウィリアム3世とメアリー2世から勅許を得た。このカレッジは2人の王に因みウィリアム・アンド・メアリー大学と名付けられた。 ジェームズタウンに再建された議会議場は1698年に再度焼失した。この火災の後で、ウィリアム・アンド・メアリー大学の学生の提案により植民地の首都は再度近くのミドル・プランテーションに恒久的に移され、ウィリアム3世に因んでウィリアムズバーグと名付けられた。
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