犯人と裁判
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「二重橋爆弾事件 (1924年)」の記事における「犯人と裁判」の解説
金祉燮が重大特命をおびて内地に潜入するという情報を、日本の特高は事前に嗅ぎつけていたが、金は客船ではなく石炭船天城丸に密航して渡日したために、警戒網をすり抜けていた。 金は風呂敷に手榴弾3つと拳銃、船内で喰うための食パンを大量に包んで、天城丸の下級船員黒島星径、小林貫一、小林開の3名にこの風呂敷包みに阿片が入っていると嘘を言い、内地に連れて行ってくれれば多額の謝礼金を払うと言い含めて、船底に潜んで前年12月22日に乗船。ところがこの船が各地に寄港している間に、食パンを食い尽くしてしまい、1月3日に門司港に着いて密かに上陸し、宿屋に入ったときには阿片だという風呂敷包みを持っていなかった。3名は不審に思い、金が入浴時に衣服を探ると、ポケットから手榴弾と拳銃が見つかった。入浴から戻った金は3名の様子がおかしいのをみて、見られたと思い激怒。物凄い剣幕であったので、3名は恐れて逃げ出した。金はすぐに通報されると思い、急ぎ夜行列車に乗って東京に行き、到着した5日の日暮れをまって決行するつもりであったが、このときに警邏に発見されて露見した。 金は裁判において「(朝鮮独立運動の殉国者となれるからと)死刑か無罪」を主張し、上告も拒否したが、山崎今朝弥弁護士が独自に行い、検察も死刑を求刑したが、この罪状で死刑判決は明らかに過剰であり、裁判所は一・二審とも無期懲役を言い渡し、刑が確定した。金祉燮は「収監するなら朝鮮の刑務所に送ってくれ」と請願したが却下され、最初千葉刑務所に服役した。また密航を手助けした3名も船舶侵入幇助罪で有罪となった。 その後、昭和天皇の即位記念による恩赦で懲役20年に減刑されたが、1928年(昭和3年)2月20日に市ヶ谷刑務所で獄死した。
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犯人と裁判
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実行犯の徐裕行は、三重県伊勢市所在の右翼団体「神洲士衛館」の構成員を名乗ったが、「神洲士衛館」は政治活動をほとんど行っていない休眠団体であり、実際は三重県伊勢市所在の山口組系暴力団羽根組の構成員だった。徐は過去に催事企画会社を経営していたが、倒産により2,300万円の借金を抱えていたことが捜査でわかった。その供述により、暴力団若頭K・Kも共犯として5月11日に逮捕された。羽根組はその後解散した。 徐は犯行動機について「義憤にかられて殺した」と供述したが、取り調べの後に「若頭の指示により犯行に及んだ」と証言を変え、「人を刺すという行為が怖かった」「しくじって残念という気持ちと、やらなくて良かったという安堵感で複雑だった。体は震えていた」、若頭から「ある人がお前に期待している」と言われた、と供述。 一方、若頭は「指示」そのものを否定した。警察の捜査でも、暴力団若頭とオウム真理教の接点が見当たらなかった。また、公判において若頭からの犯行指示日に関する実行犯の供述が不自然であると認定された。裁判の結果、東京地方裁判所は徐裕行に懲役12年、暴力団若頭K・Kに無罪判決が下り、確定した。この事件で安廣文夫裁判長は「犯行の背後関係はいまだ解明し尽くしておらず、不透明な点が残されていると言わざるを得ない」と発言した。 若頭はその後2000年11月14日に、建設資材会社に対する恐喝容疑で宮崎県警察に逮捕された。実行犯の徐は旭川刑務所に服役し、2007年に出所した。 徐裕行は「上祐史浩、青山吉伸、村井秀夫の教団幹部3人なら誰でもよかった」と供述したが、犯行当日のテレビ報道では実行犯が東京総本山ビル周辺でうろついている姿が度々映像に映っているものの、教団幹部である上祐や青山が出入りしても一切動いておらず、最初から村井をターゲットにしていたことが明白と指摘された。このことについて、徐は「週刊金曜日」2011年9月16日号で「3人がどこから来てどのスピードで入口に入るか分からず、実行の際にナイフを取り出すのが間に合うかを考えた。上祐、青山の時は距離等の関係で出来なかったが、村井の場合はかなり遠くから歩いてきたので体勢とかポジションの準備をする余裕はあった」旨の回答をしている。 また、週刊朝日2012年7月5日特別号のインタビューに応えた際には、「この事件はもう判決が出て終わっている。今もお話しできないこともある。だが、なぜ、僕が事件を起こしたか。それは、最終的には『個人の憤り』です。あの当時、社会全体がオウムに対し憤りがあったし、僕も『とんでもない連中だ』と強い義憤を感じていた」とし、裁判当時の供述とは正反対の主張を展開。また森達也から背後関係について質問された際、実行犯は「組織的なことはない」と主張した。週刊新潮のインタビューでは、若頭との関係については一切語らなかった。 社会復帰後は「徐裕行のブログ」を開設し、ヨットレースや海外旅行など私生活の様子を公開。閲覧者からヨット購入について「刺殺で報酬を得た」と指摘されたが、「あなたも、やりたいことがあったら、そんな妄想言ってないで、人の何倍も働きなさい(笑)」と回答している。事件から20年後の2015年4月以降は、ブログの更新が途絶えている。
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犯人と裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/13 03:39 UTC 版)
犯人たちは、那覇警察署の留置場で知り合い意気投合した。その後出所して落ち合い、当時商売をやっていた被害者に目を付け、一家皆殺しにして金品を強奪後、日本本土に逃亡する計画を立て、実行に移した。 裁判では両人とも死刑判決が下り上告も棄却されたが、琉球列島米国民政府のマーク・W・クラーク民政長官により、無期懲役に減刑された。
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