犯人と裁判とは? わかりやすく解説

犯人と裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/24 08:32 UTC 版)

二重橋爆弾事件 (1924年)」の記事における「犯人と裁判」の解説

金祉燮が重大特命をおびて内地潜入するという情報を、日本特高事前に嗅ぎつけていたが、金は客船ではなく石炭船天城丸に密航して渡日したために、警戒網をすり抜けていた。 金は風呂敷手榴弾3つ拳銃船内喰うための食パン大量に包んで天城丸の下級船員黒島星径、小林貫一、小林開の3名にこの風呂敷包みに阿片入っていると嘘を言い内地に連れて行ってくれれば多額謝礼金を払うと言い含めて船底潜んで前年12月22日乗船。ところがこの船が各地寄港している間に、食パン食い尽くしてしまい、1月3日門司港着いて密かに上陸し宿屋入ったときには阿片だという風呂敷包みを持っていなかった。3名は不審思い、金が入浴時に衣服を探ると、ポケットから手榴弾拳銃見つかった入浴から戻った金は3名の様子がおかしいのをみて、見られたと思い激怒。物凄い剣幕であったので、3名は恐れて逃げ出した。金はすぐに通報されると思い急ぎ夜行列車乗って東京行き到着した5日日暮れをまって決行するつもりであったが、このときに警邏発見され露見した。 金は裁判において「(朝鮮独立運動殉国者となれるからと)死刑無罪」を主張し上告拒否したが、山崎今朝弥弁護士独自に行い検察死刑求刑したが、この罪状死刑判決明らかに過剰であり、裁判所一・二審とも無期懲役言い渡し、刑が確定した金祉燮は「収監するなら朝鮮刑務所送ってくれ」と請願した却下され最初千葉刑務所服役した。また密航手助けした3名も船舶侵入幇助罪有罪となったその後昭和天皇即位記念による恩赦懲役20年減刑されたが、1928年昭和3年2月20日市ヶ谷刑務所獄死した。

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犯人と裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 09:50 UTC 版)

村井秀夫刺殺事件」の記事における「犯人と裁判」の解説

実行犯徐裕行は、三重県伊勢市所在右翼団体神洲士衛館」の構成員名乗ったが、「神洲士衛館」は政治活動をほとんど行っていない休眠団体であり、実際三重県伊勢市所在山口組系暴力団羽根組構成員だった。徐は過去催事企画会社経営していたが、倒産により2,300万円借金抱えていたことが捜査わかった。その供述により、暴力団若頭K・K共犯として5月11日逮捕された。羽根組その後解散した。 徐は犯行動機について義憤かられて殺した」と供述したが、取り調べの後に「若頭指示により犯行及んだ」と証言変え、「人を刺すという行為怖かった」「しくじって残念という気持ちと、やらなくて良かったという安堵感複雑だった。体は震えていた」、若頭から「ある人がお前に期待している」と言われた、と供述一方若頭は「指示そのもの否定した警察の捜査でも、暴力団若頭オウム真理教接点見当たらなかった。また、公判において若頭からの犯行指示に関する実行犯供述が不自然であると認定された。裁判結果東京地方裁判所徐裕行懲役12年暴力団若頭K・K無罪判決下り確定した。この事件安廣文夫裁判長は「犯行背後関係はいまだ解明し尽くしておらず、不透明な点が残されていると言わざるを得ない」と発言した若頭その後2000年11月14日に、建設資材会社対す恐喝容疑宮崎県警察逮捕された。実行犯の徐は旭川刑務所服役し2007年出所した徐裕行は「上祐史浩青山吉伸村井秀夫教団幹部3人なら誰でもよかった」と供述したが、犯行当日テレビ報道では実行犯東京総本山ビル周辺うろついている姿が度々映像映っているものの、教団幹部である上祐青山出入りして一切動いておらず、最初から村井ターゲットにしていたことが明白と指摘された。このことについて、徐は「週刊金曜日2011年9月16日号で「3人がどこから来てどのスピード入口に入るか分からず実行の際にナイフ取り出すのが間に合うかを考えた上祐青山の時は距離等の関係で出来なかったが、村井場合はかなり遠くから歩いてきたので体勢とかポジション準備をする余裕はあった」旨の回答をしている。 また、週刊朝日2012年7月5日特別号インタビュー応えた際には、「この事件はもう判決出て終わっている。今もお話できないこともある。だが、なぜ、僕が事件起こしたか。それは、最終的には『個人憤り』です。あの当時社会全体オウム対し憤りがあったし、僕も『とんでもない連中だ』と強い義憤感じていた」とし、裁判当時供述とは正反対主張を展開。また森達也から背後関係について質問された際、実行犯は「組織的なことはない」と主張した週刊新潮インタビューでは、若頭との関係については一切語らなかった。 社会復帰後は「徐裕行ブログ」を開設しヨットレース海外旅行など私生活様子公開閲覧者からヨット購入について「刺殺報酬得た」と指摘されたが、「あなたも、やりたいことがあったら、そんな妄想言ってないで、人の何倍も働きなさい(笑)」と回答している。事件から20年後の2015年4月以降は、ブログ更新途絶えている。

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犯人と裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/13 03:39 UTC 版)

壷屋強盗殺人事件」の記事における「犯人と裁判」の解説

犯人たちは、那覇警察署留置場知り合い意気投合したその後出所して落ち合い当時商売をやっていた被害者目を付け一家皆殺しにして金品強奪後、日本本土逃亡する計画立て実行移した裁判では両人とも死刑判決下り上告棄却されたが、琉球列島米国民政府マーク・W・クラーク民政長官により、無期懲役減刑された。

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