江源武鑑に描かれる経歴とは? わかりやすく解説

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江源武鑑に描かれる経歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 16:17 UTC 版)

六角義秀」の記事における「江源武鑑に描かれる経歴」の解説

天文10年1540年4月5日六角義実の子として生誕幼名飛龍。『江源武鑑』では、母親将軍足利義晴の娘であり、天文17年1548年)に若狭守護武田義統嫁いだ女性同腹であるとしている。京の将軍家からは誕生祝いとして綾500巻、白銀千枚、「歳」という名を持つ太刀贈られた。天文17年には同腹の弟「龍水丸」が武田義統養子となった天文14年1545年)、元服して義秀と名乗り室町幕府出仕する[要出典]。天文24年3月3日、父の義実から家督相続弘治3年1557年1月には父義実が没し八幡山義昌京極高吉六角義賢ら5人が義秀の後見とされている。義実が弘治3年1月24日書いたとされる「義実百箇条」では、「愚息修理大夫義秀」とあり、任官受けていたとされる永禄元年1558年4月8日には後見義賢出家し、承禎と号したが、国政には関与し続けたという。永禄2年1559年2月24日には駿河国今川義元から上洛に及ぶが、その道を遮るなという書簡受け取る。2月には織田信長が妹お市の方浅井長政に嫁がせたい旨を申し入れ後見六角承禎とともにこれを許可している。6月には美濃国土岐氏から使節があり、上洛したい旨が伝えられたが、義秀は下心有るとしてこれを許可しなかった。8月には伊勢国北畠具教家臣桑名氏を滅ぼし、具教の舅であった六角承禎の子義弼(六角義治)が三千騎をひきいて伊勢向かった9月15日には将軍義輝から一色淡路守が遣わされ、義秀と承禎を和解させようとしている。10月24日には美濃斎藤義龍要請で、美濃侵攻した織田家退けるため八幡山義昌大将とする四千騎を援軍送っている。永禄3年1560年5月には織田信長からの要請で、二千三百騎を援軍として送った。この時桶狭間の戦い信長義元討ち取っている。10月10日には浅井長政計らいで義秀と信長の娘の縁組持ち上がった後見の承禎と八幡山義昌反対したが、18日には両者結婚させるよう将軍足利義輝の命が下り29日には信長の娘が観音寺城到着した。この娘は天正5年1月の項目で、信長庶兄織田信広の娘で、信長養女であると説明されている。 永禄5年1561年)ごろには承禎と不仲になっていた。永禄6年1562年3月23日には京極高吉朽木貞綱近江旗頭連れ立って観音寺城登城した。旗頭らは六角義弼逆心したと訴え出、3月25日に義秀は義弼を討つことを命じ1万1千騎が義弼が籠もる箕作城攻撃した。義弼には北畠氏からの援軍加わっていたという。26日には承禎が観音寺城登城し弁明しようとしたが、義秀は会わなかった。義弼は僅かな近習とともに箕作城退去し徳源院入ったが、義秀の命で京極高吉のもとにお預けとなり、所領は父承禎のもとに分けられた。 永禄8年1565年5月19日には将軍足利義輝が「松永弾正忠通秀」父子一方大将とする三好氏の軍によって殺害されるこの際、承禎・義弼父子三好氏通謀し、義秀ごと滅亡させようとしていることを示す密書発覚したが、承禎を攻撃することはなかった 永禄11年1568年5月23日には近江国内の矢島御所滞在していた足利義昭を、三好氏通謀していた承禎父子討とうとする企み発覚する。しかし義秀はその心はわからないとして承禎父子箕作城帰した6月8日織田信長密かに観音寺城訪れ、義秀と対面した。義秀は義昭上洛支持することを表明し8月4日に承禎父子を討つことを命じた。承禎父子北畠氏からの援軍含めた兵力抵抗するが、9月20日合戦後降伏、義秀は両者討ち取るよう命じたが、京極高吉諫言二人助命された。義昭上洛の際には義秀も同行し10月11日義昭参内した際には義昭の次、信長の前の席に座していたとされる。またこの日、信長とともに参議任じられたとしている。12月21日には義昭より北陸道管領に任ぜられた。永禄12年1569年)の大河内城の戦いでは信長とともに出陣している。『江源武鑑』ではこの時期しばしば「尾陽両将」「義秀信長両将」という表現で、義秀と信長がともに行動している表現見られる元亀元年1570年4月信長による朝倉氏攻撃にも義秀は同行している。しかし突然軍勢率いて帰国したその後小谷城家臣浅井備前守長政が、朝倉氏若狭武田氏越後上杉氏甲斐武田氏連携して信長討とうとしている起請文見せ近江旗頭らもこれに与するよう求めた。また義秀も信長行動について諫言していたため両者不和になっていた。6月1日には根来寺亡命していた承禎父子和解した。しかし6月4日に承禎父子信長の軍を攻撃し、義秀の軍勢もこれに加わった信長浅井父子のこもる小谷城攻めた失敗し、義秀は「当家武士の棟梁」と称賛している。6月28日姉川の戦いでは、朝倉援軍得た近江軍が織田軍に打撃加え信長美濃退却したその後小競り合い続いていたが、12月8日には将軍義昭朝廷からの使いが義秀と信長和睦要請し、義秀は勅旨であるなら異議がないと回答した。 しかし浅井氏始めとする近江旗頭信長戦い再発し元亀2年8月26日には信長観音寺城訪れて対面している。この際信長は「御前(義秀)に向ける弓矢ほど苦しきものはない」と涙を流し、義秀も目をうるませたという。信長比叡山焼き討ち決めた際には厳しく諫言したというが、後に信長とともに山門退治」に参加したという。 元亀4年1573年4月28日には義昭より信長と義秀の両名にすべてを任せる旨が伝えられた。義秀は病気がちであったため、面会した際に信長は「信長一人粉骨」していると涙を流し、義秀もともに落涙したという。義秀も義昭将軍の器でないと見ていたが、義昭が反信長挙兵行ったときには重病信長同行できず、「これで信長一人天下となるだろう」と落涙した信長浅井長政父子に義秀を願えれば近江一国与えるとして内通誘い浅井父子は引き抜けなかったものの、蒲生賢秀阿閉貞征織田側に寝返った。義秀は浅井父子蒲生・阿閉を討つよう命じ天正元年8月10日よりは義秀と近江軍が織田軍と衝突し近江軍が信長の軍を破ったその後信長朝倉浅井両氏滅ぼし、8万人軍勢観音寺城取り囲んだが、勅使受けて義秀と信長和睦した信長は義秀とその子孫異心持たないという起請文書き残している。信長蘭奢待切り取った際には近江からも検使差し出している。天正3年1573年2月3日には、志賀郡高島郡の地を信長に「預けて」いる。 天正5年1577年1月には初めの子となる男子・義郷が誕生した武田氏滅亡の報を聞いた際には、「(信長は)無慈悲なれば逆亡することあるべし」と述べている。5月28日に病のため死去享年38

※この「江源武鑑に描かれる経歴」の解説は、「六角義秀」の解説の一部です。
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