江源武鑑・系図等による義実の生涯とは? わかりやすく解説

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江源武鑑・系図等による義実の生涯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 07:40 UTC 版)

六角義実」の記事における「江源武鑑・系図等による義実の生涯」の解説

沙沙貴神社所蔵の「佐々木系図」では、室町幕府10代将軍足利義稙猶子となり、従三位参議大膳大夫近江守護権中納言に任ぜられたとされている。在野歴史研究家佐々木哲は『鹿苑日録』の天文5年1536年五月十四日の条にある「江州宰相印子来」、天文8年1539年五月十九日の条に「宰相上洛」と記されているのは参議参議唐名宰相相公)義実とのことだとしている。ただし「公卿補任」や公家日記などには六角氏参議以上に任官したという記録存在しない公卿補任天文5年から天文8年参議であった源氏人物は源通為(中院通為)と源晴具(北畠晴具)の二名のみであり、義実に該当する名前は存在しない実名六角氏重臣筆頭格「両」の一角である進藤久治山中久俊・深尾久吉らの重臣勢力下の浅井久政偏諱から義久であるとする説がある。『鹿苑日録』では江州相公比定される人物義久との名を当てており、実際に義久名乗っていた可能性が高いとしている。このほか「高頼」「隆頼」と名乗っていた形跡見られるとしている(『大永六年五月二十八日青木社中六角隆頼願状』)。 その治世中、一貫して足利将軍家庇護者として行動し、京を追われ足利義晴領国近江保護し大永6年1526年)には浅井亮政退治青木社に祈願するなどの行動見える。天文3年1534年)、観音寺城内の桑実寺行われた12代将軍・足義晴五摂家近衛尚通息女慶寿院との婚礼に際して父・氏綱と共にお色直し参上した。(『天文三年甲午六月八日江州御台様むかへニ御祝目六』)。義晴帰京には従わなかった(『厳助往年記』)。天文6年1537年出家して宗能と号す(『続群書類従』に宗能名義での発給文書掲載)。幕府内では将軍に次ぐ地位にあり、天文8年1539年)には養父である足利義稙十七回忌法要主催し堺政所足利義維牽制将軍就任阻止した。 『江源武鑑』では、弘治3年1557年2月23日没している。諸系図では天文15年1546年もしくは天文18年1549年)などの記載がある。

※この「江源武鑑・系図等による義実の生涯」の解説は、「六角義実」の解説の一部です。
「江源武鑑・系図等による義実の生涯」を含む「六角義実」の記事については、「六角義実」の概要を参照ください。

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