水軍の勢力争い
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律令国家は陸路を重視し、大宰府から都につながる大宰府道・山陽道を交通の中心としたが、平安時代以降は、平安京で消費される米・塩など重量の重い物資を輸送力の高い海運に頼るようになり、波が穏やかで大きな潮汐差を船の推進力に利用できる瀬戸内海には、多くの輸送船が往来するようになった。経済的な価値を高めた芸予諸島は、畿内の貴族・大寺社などによって荘園化が進められた。国司や荘園領主は徴税を強化することで、製塩や海産物資源を獲得し、住民の移動・流浪を抑えて定住化を図った。これに反発する海運従事者や異郷に流浪する人々などは各地で紛争を引き起こし、海賊を生む状況を作り出した。 中世の荘園時代でも塩の生産が盛んで、室町時代には「備後」という名称で年9万石余が畿内に送られていた。『万葉集』では「朝凪に玉藻刈りつつ夕凪に藻塩焼きつつ…」と詠まれている。応安4年(1371年)今川貞世(了俊)の紀行文『道ゆきぶり』には向島を見て「しほやどもかすかにて、やきたつるけぶりのすえ物あはれなり。此島にしほやくたびに、一日二日のほどに必ず雨のふり待るといひならはしなり。(沿岸部で盛んだった製塩業では塩を焼くときの煙で雨を呼んでいた。)」と書かれている。 当時の海賊衆の様子がわかるものの一つに、室町時代に朝鮮使節として来日した宋希璟の『老松堂日本行録』(1420年)がある。そこには、京都への往路、「鎌刈三の瀬」を通過する際の記事として、「かつてここで朝鮮使が海賊に遭遇し、船中の礼物や食糧・衣服などを全部掠奪されたが使者以下は害を免れたこと、そこは室町幕府将軍の威光の届かない場所であるが、東より西に向かう船は東の海賊を一人乗せれば西の海賊が害を及ぼさず、西より東に向かう船は西の海賊を乗せれば東の海賊が害を及ぼさないことになっているので、七貫文出して東の海賊を乗せてきたこと」などを記している。このことから海賊衆が瀬戸内海各地に関所を設定して船舶から関銭を徴収したり、船舶に乗船して水先案内や警護の見返りに金銭を受け取っていたことが分かる。 こうした海賊は時代が下ると組織だって行動し始め、水軍となっていった。そして戦国大名は彼らと対立、あるいは“警固衆”として味方に引き入れようと画策していった。 芸予諸島の海賊衆の中で最も有名なのが村上水軍(村上海賊)である。南北朝時代に南朝方として活躍した村上義弘が祖と伝えられ、この時代に東寺弓削島荘の近海で活動を行っていたことが確認されている。彼らは形式上は河野氏配下であったが独自路線を歩み、芸予諸島において西瀬戸内海の海上交通・海上運輸における「独自の秩序」を作り上げ、瀬戸内海航路を縦横に遮る連繋をとることで活動を行っていたと考えられている。伝承によればもともと同一の家から次の3つの一族に分立した。 能島村上氏 - 芸予諸島の大島-伯方島間の船折の瀬戸の真ん中にある能島城・大三島と伯方島間の屈曲の多い鼻栗の瀬戸にのぞむ甘崎城などを築いて活動した。能島城には居館・家臣屋敷・職人屋敷が、隣接する鵜島には造船所・船奉行屋敷・船大工屋敷などが存在した。 来島村上氏 - 高縄半島-大島間の来島瀬戸に来島・中渡島・武志島の砦を築く 因島村上氏 - 因島南端にあり燧灘に対する基地となった長崎城、尾道水道への抑えとして築かれた青木城、島の中央の青陰城などを拠点に活動 宣教師ルイス・フロイスは、村上水軍を“日本最大の海賊”と評した。 また南北朝時代、北朝方として備後沼田(三原市)を拠点とした小早川氏が南下してくる。勢力を拡大した小早川氏はそれぞれの島で警固衆(小早川水軍)を編成すると、室町時代に前述の"備後"と呼ばれた塩の取引に絡んでいる。その庶家の一つ生口氏の拠点である瀬戸田(生口島)から出る"生口船"は室町幕府保護のもとで備後を運び、その取引量は文安2年(1445年)兵庫湊(神戸港)海関の通行記録である『兵庫北関入船納帳』で瀬戸内海有数のものであったことがわかっている。室町時代前期に伊予国であった大崎下島・豊島は室町後半ごろに小早川氏が掌握、ここから安芸国に属するようになった。彼ら小早川一門はのちに安芸の戦国大名・毛利元就の傘下に入ることになる。 そして、西側は南北朝時代に倉橋島や蒲刈群島に移り住んだ多賀谷氏(倉橋多賀谷氏・蒲刈多賀谷氏)が、現在の呉市中心部には呉衆とよばれる連合水軍がおり、戦国時代中期にはそれらは大内氏警固衆として活躍している。 1551年、大内義隆に仕えていた陶晴賢は主君を倒し、瀬戸内海上の交通・運輸ルートを掌握した。晴賢は海賊衆の秩序に介入し、海賊衆らの警固料徴収を禁止し、商人からの礼銭を独占しようとした。村上水軍はこれに反発し、晴賢と元就が衝突した1555年の厳島の戦いでは、小早川氏を介して元就に味方した。村上水軍を味方につけた元就は厳島で4000人余の軍勢を率い、2万人の陶軍を破って瀬戸内海の交易路を掌握した。これ以降、毛利氏は中国地方の覇権を握ることになる。 ただ、彼ら海賊衆は天正16年(1588年)豊臣秀吉の海賊停止令により、事実上解体されることになる。この中で「伊郡喜島(斎島)では海賊行為を禁止したにもかかわらず、まだ出没している」と名指しされており、伝承によると当時の島民は秀吉により虐殺されたという。
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