水軍の勢力争いとは? わかりやすく解説

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水軍の勢力争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 15:03 UTC 版)

芸予諸島」の記事における「水軍の勢力争い」の解説

律令国家陸路重視し大宰府から都につながる大宰府道・山陽道交通の中心としたが、平安時代以降は、平安京消費される米・塩など重量の重い物資輸送力の高い海運に頼るようになり、波が穏やかで大きな潮汐差を船の推進力利用できる瀬戸内海には、多く輸送船往来するようになった経済的な価値高めた芸予諸島は、畿内貴族大寺社などによって荘園化が進められた。国司荘園領主徴税強化することで、製塩海産物資源獲得し住民移動・流浪を抑えて定住化図った。これに反発する海運従事者異郷流浪する人々などは各地紛争引き起こし海賊生む状況作り出した中世荘園時代でも塩の生産が盛んで、室町時代には「備後」という名称で年9万石余が畿内送られていた。『万葉集』では「朝凪玉藻刈りつつ夕凪藻塩焼きつつ…」と詠まれている。応安4年1371年今川貞世(了俊)の紀行文道ゆきぶり』には向島見て「しほやどもかすかにて、やきたつるけぶりのすえ物あはれなり。此島にしほやくたびに、一日二日のほどに必ずのふり待るといひならはしなり。(沿岸部盛んだった製塩業では塩を焼くときの煙で呼んでいた。)」と書かれている当時の海賊衆の様子がわかるもの一つに、室町時代朝鮮使節として来日した宋希璟の『老松堂日本行録』(1420年)がある。そこには、京都への往路、「鎌刈三の瀬」を通過する際の記事として、「かつてここで朝鮮使が海賊遭遇し船中礼物食糧衣服などを全部掠奪されたが使者以下は害を免れたこと、そこは室町幕府将軍威光届かない場所であるが、東より西に向かう船は東の海賊を一人乗せれば西の海賊が害を及ぼさず、西より東に向かう船は西の海賊を乗せれば東の海賊が害を及ぼさないことになっているので、七貫文出して東の海賊を乗せてきたこと」などを記している。このことから海賊衆瀬戸内海各地関所設定して船舶から関銭徴収したり、船舶乗船して水先案内警護見返り金銭受け取っていたことが分かるこうした海賊時代が下ると組織だって行動し始め水軍となっていった。そして戦国大名は彼らと対立、あるいは“警固衆”として味方引き入れよう画策していった。 芸予諸島海賊衆の中で最も有名なのが村上水軍村上海賊)である。南北朝時代南朝方として活躍した村上義弘が祖と伝えられ、この時代東寺弓削島荘の近海活動行っていたことが確認されている。彼らは形式上河野氏配下であった独自路線歩み芸予諸島において西瀬戸内海海上交通海上運輸における「独自の秩序」を作り上げ瀬戸内海航路縦横に遮る連繋をとることで活動行っていたと考えられている。伝承によればもともと同一の家から次の3つの一族分立した。 能島村上氏 - 芸予諸島大島-伯方島間の船折の瀬戸真ん中にある能島城大三島伯方島間の屈曲の多い鼻栗の瀬戸にのぞむ甘崎城などを築いて活動した能島城には居館家臣屋敷職人屋敷が、隣接する鵜島には造船所船奉行屋敷船大工屋敷などが存在した来島村上氏 - 高縄半島-大島間の来島瀬戸来島中渡島武志島の砦を築く 因島村上氏 - 因島南端にあり燧灘対す基地となった長崎城、尾道水道への抑えとして築かれ青木城、島の中央の陰城などを拠点活動 宣教師ルイス・フロイスは、村上水軍を“日本最大海賊”と評した。 また南北朝時代北朝方として備後沼田三原市)を拠点とした小早川氏南下してくる。勢力拡大した小早川氏それぞれの島で警固衆(小早川水軍)を編成すると、室町時代前述の"備後"と呼ばれた塩の取引絡んでいる。その庶家一つ生口氏の拠点である瀬戸田(生口島)から出る"生口船"は室町幕府保護のもとで備後運び、その取引量は文安2年1445年兵庫湊(神戸港海関通行記録である『兵庫北関入船納帳』で瀬戸内海有数のものであったことがわかっている。室町時代前期伊予国であった大崎下島豊島室町後半ごろに小早川氏掌握ここから安芸国属すようになった。彼ら小早川一門はのちに安芸戦国大名毛利元就傘下に入ることになる。 そして、西側南北朝時代倉橋島蒲刈群島移り住んだ多賀谷氏倉橋多賀谷氏蒲刈多賀谷氏)が、現在の呉市中心部には呉衆とよばれる連合水軍がおり、戦国時代中期にはそれらは大内氏警固衆として活躍している。 1551年大内義隆仕えていた陶晴賢主君倒し瀬戸内海上の交通・運輸ルート掌握した。晴賢は海賊衆秩序介入し海賊衆らの警固徴収禁止し商人からの礼銭独占しようとした村上水軍はこれに反発し、晴賢と元就衝突した1555年厳島の戦いでは、小早川氏を介して元就味方した村上水軍味方につけた元就厳島4000人余の軍勢率い2万人の陶軍を破って瀬戸内海交易路掌握した。これ以降毛利氏中国地方覇権を握ることになる。 ただ、彼ら海賊衆天正16年1588年豊臣秀吉海賊停止令により、事実上解体されることになる。この中で「伊郡喜島(斎島)では海賊行為禁止したにもかかわらず、まだ出没している」と名指しされており、伝承によると当時島民秀吉により虐殺されたという。

※この「水軍の勢力争い」の解説は、「芸予諸島」の解説の一部です。
「水軍の勢力争い」を含む「芸予諸島」の記事については、「芸予諸島」の概要を参照ください。

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