荘園時代
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島の南にある光明坊は、天平2年(730年)に行基が開基したと伝えられる。 島の西にある垂水天満宮は伝承によると、菅原道真由来の神社である。別名は牛天神といい、道真が寛平8年(896年)に大山祇神社へ祈祷へ向かう最中、この付近で難破して上陸できずに困っていたところ、里人が引いていた牛が嵐の中から道真を陸まで引っ張りあげたことからこの名がついた。その時に道真は世話になったお礼として清水の在り処を示すとそこから水が湧き出たことから、“垂水”の名がついたと言われている。そこより北の、瀬戸田水道南口を見守るような位置にある天満神社は、長和元年(1012年)沢信勝が北野天満宮から寄進したものと伝えられる。 平安時代、生口島は「生口荘」、あるいは「生口南荘」「生口北荘」「福田庄」に分割された荘園であった。 平安時代末期に後白河院領であった南荘の一部を光明坊に寄進し、寺社領となったその地は発展を遂げ“御寺”と呼び出した。 建久2年(1191年)北荘は長講堂領となる。 正嘉元年(1257年)いつ移ったかわからないが生口荘全域が法華堂領であった記録がある。 これらのことから、当時の島の中心地は島の南側である御寺地区であったと考えられている。一方で島の北側の瀬戸田や名荷は古くからの天然の良港で、倉敷地として用いられていたと推定されている。
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荘園時代
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「因島荘」を参照 平安時代末期から鎌倉時代にかけて、後白河院そしてそれに連なる人物の荘園となっている。年貢は塩であった。鎌倉中期の記録によると三津荘・(因島)中荘・重井荘と3つに別れており、地頭は北条氏がすべて独占し得宗領であったと考えられている。 建武の新政前後である元弘3年(1333年)、後醍醐天皇は地頭職を浄土寺に与え、以降寺領となる。この時代、浄土寺のある尾道は交易港として発展した時期で、因島で取れる塩や栗などの特産物を取引しており、寺領となったことで尾道の商業圏として確立したと考えられている。ただ鎌倉末期のこの時期、島内は混乱していたことから浄土寺の支配は及んでおらず、建武3年(1336年)足利尊氏が所領を安堵したことにより浄土寺荘園として機能するようになる。建武5年(1338年)尊氏は京都東寺に寄進し、以降東寺荘園となった。ただこの時代までのこの島には、寺自体は全く存在していなかった。 南北朝時代から室町時代初期にかけては蒲刈小早川氏が進出してくる。南北朝時代、西隣の生口島とともにこの地は南朝方が支配していたが高山城を拠点とした北朝方の小早川氏が伊予に攻める途中に攻略し、椋浦の一ノ城を拠点として康永3年(1344年)から応永年間(1394年から1427年)まで支配した。 因島村上氏の名前が出てくるのも同じ頃である。鎌倉末期この地の開発領主上原祐信が元弘の乱での六波羅探題攻めに参加した際に一族郎党の多くが戦死したため上原氏は絶家してしまったことに端を発し、伊予を拠点としていた南朝方の今岡通任がこの地を横領し北朝方に転身したため、南朝方は天授3年(1377年)長慶天皇の綸旨を受け村上師清が通任を討伐し、その三男である村上顕長が本主を継承した、と伝えられている。この顕長が因島村上氏の祖であると言われている。また敗れた今岡氏(河野氏系)の子孫はそこから1字づつとった岡野姓を名乗り田熊を中心に住み現在まで至っていると言われている。
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