荘園制における勧農
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/05 23:59 UTC 版)
平安時代中期ごろに律令制が崩壊し、荘園・国衙領を支配単位とする体制が確立していくと、勧農の内容も次第に変質していった。特に荘園では年貢徴収を指して勧農と呼ぶ例も見られるようになった。中世荘園における勧農は、大きく2つに区分される。1つは荘園領主による勧農、もう1つは在地領主による勧農である。 荘園領主は、現地の有力農民(田堵など)を名主に任じ、荘園の現地経営を安定させると同時に、直属の預所を現地へ派遣するなどして、荘園支配の強化維持に努めた。その中で、荘園領主による勧農は、百姓や名主も期待するところであり、例として年貢の減免や雑役人夫への給付などが行われた。場合によっては、荘園領主が命じて名主や預所に勧農を行わせることもあった。 在地領主は、平安中期~後期を通じて、名田経営により富を蓄積し、周辺田地や開発墾田を集積するとともに、それらの田地内の一般百姓を支配下に置こうと指向していた。そのため、灌漑用水を開発したり、自らの私営田を一般百姓に耕作させるなどの勧農行為をとおして、在地に対する支配力を強めていった。こうした動きは、鎌倉時代になると一層顕著となり、鎌倉中期には荘園領主と在地領主との間で勧農権をめぐる相論(訴訟)が頻発するようになる。ここに至り、勧農権は現地の実効支配を意味するようになった。つまり、鎌倉期の地頭は、在地領主として勧農を実施することで、現地の実効支配権をも主張したのであり、このようにして地頭による荘園侵略が行われたのである。
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