生口氏の拠点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 16:35 UTC 版)
南北朝時代、この地は伊予国を中心とした南朝勢の拠点の一つで、観音山の“茶臼山城”を拠点に広沢五郎が生口南荘を支配下においていた。そこへ、高山城(現三原市)を居城としていた北朝の小早川氏が伊予へ攻め入る最中である康永元年(1342年)に茶臼山城にて双方が激突して小早川氏が勝利し、以降この地は小早川氏の領地となる。そして小早川宣平の子、惟平がこの地に拠点を移し生口姓を名乗り(生口惟平)、以降この地は生口氏が支配することになる。生口氏は茶臼山城を本拠とし、更に瀬戸田の港を支配できる位置に“俵崎城”を設けた。 瀬戸田 高山城 竹原 三原 忠海 高山城周辺は沼田小早川氏、竹原は竹原小早川氏、忠海は小早川水軍の一つ浦氏の拠点。三原は戦国時代末期に小早川隆景が拠点を移した。 瀬戸田が生口氏の保護下で交易港として発展し、生口小早川水軍の拠点となり、島の中心地となっていったのはこの14世紀半ば以降のことである。 室町幕府の奉公衆だった小早川氏は、拠点である沼田荘(現・三原市)から物資を運ぶ際、川船で瀬戸田まで移動し瀬戸田から海船で幕府に向かう方法をとっていたことから、小早川氏にとってこの地は外港を担っていた。 ここの物資輸送船は“生口船”と呼ばれ20隻の千石船が編成に加わっており、そして室町幕府から自由な航行を認可されていた。 こうして、生口氏にとっては物資調達のため、海運業者にとっては商売に武力勢力の保護そして特権が使えたため、双方とも結びつくことで利益を生み、そして生口氏の発展のみならず本家の小早川氏の発展にも寄与することになる。当時から瀬戸田の交易品の主力は塩であり、文安2年(1445年)兵庫湊(神戸港)海関の通行記録である『兵庫北関入船納帳』において、その通行回数から瀬戸内海有数の交易港であったことがわかっている。 また、生口氏は海運業者との関係をより密接なものとするため、瀬戸田を発展させそして寺社に寄進した。向上寺は応永10年(1403年)佛通寺の末寺として開山したもので、生口守平による寄進で創建した。地蔵院・広徳寺・興福寺・法然寺、生口神社(祇園宮)など瀬戸田港周辺の寺社はこの時代に生口氏や商人らの寄進により創建あるいは中興している。 島の北東部である名荷で行われている県無形民俗文化財である名荷神楽は、室町時代からと伝えられている。ある年、島全体は疫病と旱魃からの凶作に苦しみ、それを見かねた名荷神社の世話役が病魔退散と豊作を願い御幣と扇子を持って神楽を舞ったのが最初と言われている。 天文23年(1554年)、生口南荘は東隣の因島を拠点としていた因島村上氏(村上水軍)に割譲することになる。村上氏は御寺に館を築いたと伝えられている。 生口氏の山城である茶臼山城は現在の中野地区にあり、『芸藩通志』では海賊衆の生口景守の城と記載されており、戦国時代/安土桃山時代までは少なくとも生口氏の拠点であった。俵崎城は、瀬戸田の町と高根島・佐木島・因島そして更に北にあり小早川氏本家の本拠である三原まで見通せる小高い丘の上にあり、16世紀前半頃に本格的に整備された、城と館の機能を持った城と考えられており、当時の小規模の城としては珍しく瓦葺きであったことが分かっている。
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