構成資産の歴史的背景
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「富岡製糸場と絹産業遺産群」の記事における「構成資産の歴史的背景」の解説
富岡製糸場も参照のこと。なお、文中の太字は推薦されている構成資産もしくは当初推薦予定で見送られた物件を示す。 群馬県一帯は古くから養蚕業がさかんであり、沼田市には「薄根の大クワ」が残る。これは天然記念物に指定されている日本最大のヤマグワの木で、樹齢1500年と言い伝えられている。地元の人々からは神木として崇められてきた木で、養蚕業と地域の結びつきの深さを伝えている。養蚕業は地域の住宅建築とも密接に結びついており、1792年ごろに建てられた冨沢家住宅(とみざわけじゅうたく。中之条町、重要文化財)や、明治時代末葉から昭和初期に形成された赤岩地区養蚕農家群(中之条町、重要伝統的建造物群保存地区)などは古い養蚕農家の形式を伝えている。 そんな群馬県に器械製糸の官営模範工場を建てることが決まったのは1870年のことであった。富岡の地が選ばれたのは、周辺での養蚕業がさかんで原料の繭の調達がしやすいことなどが理由であり、建設に当たっては、元和年間に富岡を拓いた代官・中野七蔵が代官屋敷予定地として確保してあった土地が公有地(農地)として残されていたため、工場用地の一部として活用された。フランス人ポール・ブリューナを雇い、フランスの製糸器械を導入した富岡製糸場は1872年におおよそが完成し、その年の内に操業が始まった。一般向けにも公開されていたこの製糸場は、見物人たちに近代工業とはどのようなものかを具象化して知らしめた。そして、全国から集められた工女たちは、一連の技術を習得した後、出身地に戻るなどして各地の器械製糸場で指導に当たり、その技術を地域に伝えることに大きく貢献した。他方で、群馬では器械製糸はなかなか広まらなかった。その一因は伝統的な「座繰り」を基にした製糸が伸長していたことにあり、品質管理のために組合も組織されていた。そうした組合の一つが甘楽社(かんらしゃ)であり、旧甘楽社小幡組倉庫(きゅうかんらしゃおばたぐみそうこ)は組合製糸の保管庫として使われていた倉庫である。 富岡製糸場の役割は単に技術面の貢献にとどまらず、近代的な工場制度を日本にもたらしたことも指摘されている。富岡の工女たちの待遇は、『あゝ野麦峠』『女工哀史』などから想起されるような過酷なものではなく、特に当初はおおむね勤務時間も休日も整っていた。そうした制度は、民間に伝播する中で、労働の監視や管理が強化されていき、富岡製糸場自体も民間への払い下げを経て、労働が強化されていく方向へと変化することになる。 さて、富岡製糸場が操業を開始したのと同じ1872年、養蚕技術について書かれた本としてはベストセラーになる1冊の本が刊行された。『養蚕新論』がそれであり、著者は島村(現伊勢崎市境島村)の養蚕農家、田島弥平であった。田島弥平はその年に発足した蚕種販売業の島村勧業会社の副長(副社長)に就任した人物であるとともに、島村で普及していた「清涼育」の発案者であった。清涼育とは蚕の育成法の一つで、蚕室の温度・湿度の変化が繭の質にも大きく影響する養蚕業にあって、換気・通風をよくして蚕を育てる手法である。島村の養蚕農家には、この育成法に適した形態の大型民家、すなわち総二階で瓦葺きの屋根に換気用の「ヤグラ」が設置されている民家が多かった。そうした養蚕民家の原型といえるものが、いまなお田島弥平の子孫が暮らす私邸田島弥平旧宅(たじまやへいきゅうたく)である。 田島弥平の「清涼育」などからは、「清温育」(せいおんいく)の手法が生まれた。この手法を開発したのが高山村(現藤岡市高山)の高山長五郎で、彼の「養蚕改良高山組」は高山社(たかやましゃ)へと発展した。高山社は清温育の研究及び教育を行なっており、併設した蚕業学校の分教場を各地に作り、清温育の普及に貢献した。高山社跡は、かつての高山社が養蚕技術の改良や普及に果たした役割を伝えている。 製糸業の発展に伴い、繭の増産も求められるようになった。増産のためには、蚕種が孵る時期を遅らせ、夏や秋に養蚕する数を増やす必要が出てくるが、そこで活用されたのが風穴であった。夏でも冷暗な風穴の存在は、気温の上昇が孵化の目安となる蚕を蚕種のまま留めおくのに適している。もともと蚕種保存への風穴の利用は長野県で1865年(慶応元年)5月に始まったとされている。長野はその後、蚕種貯蔵風穴の数を増やし、明治30年代にはその数30以上で他県を凌駕していた。群馬ではごく例外的な単発の利用を除けば、本格的な風穴の利用は明治30年代後半まで見られない。その群馬での風穴利用の初期に作られ、日本最大級の蚕種貯蔵風穴に成長したのが荒船風穴(あらふねふうけつ)である。荒船風穴は1905年から1913年までに3つの風穴が整えられた。これを作り上げたのが庭屋千壽(にわやせんじゅ)とその父の静太郎であった。千壽は高山社蚕業学校の卒業生であり、在学中に長野の風穴などについての知見を得ていたことが役に立った。群馬ではそのほか1907年に蚕種貯蔵を始め、県内第2位の規模だったとも言われる栃窪風穴(とちくぼふうけつ)などが残る。 荒船風穴の近くに発達した鉄道が上野鉄道(こうずけてつどう。現上信電鉄)である。1897年に高崎と下仁田を結んで開通したこの鉄道は、生糸、繭、蚕種の運搬などを目的に開かれた鉄道であり、筆頭株主は三井銀行(富岡製糸場は当時、三井家に属していた)、株主の半分以上が養蚕農家であった。こうした鉄道による生糸などの運搬ということでは、碓氷越えを果たし、長野と群馬を結んだ碓氷線(1893年開通)の存在も大きかった。碓氷線は絹産業との関わりだけでなく、日本の鉄道史にとっても重要なものであり、碓氷峠鉄道施設は1993年にいわゆる近代化遺産の中で最初の重要文化財に指定されることになる。 さて、日本の近代化および絹産業の発展に寄与した富岡製糸場は、1893年に三井家に払い下げられ、1902年には原富太郎が経営する原合名会社に、1939年には片倉製糸紡績株式会社(現片倉工業)に売却された。片倉は第二次世界大戦中に保有していた62の製糸工場を次々と廃止または軍事転用せざるをえなくなり、製糸工場として操業が続けられたのは3分の1程度に過ぎなかったが、富岡はその中に含まれていた。戦後に繊維産業が衰退していく中でも、富岡は製糸工場として1987年まで稼動を続けた。その間、新たな機械が導入されることもあったが、もともと巨大に作られていた工場は、改築などを必要とせずにそうした機械を受け入れることができ、建物自体は当初の姿を残し続けることができた。
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