構成資産の歴史的背景とは? わかりやすく解説

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構成資産の歴史的背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 21:06 UTC 版)

富岡製糸場と絹産業遺産群」の記事における「構成資産の歴史的背景」の解説

富岡製糸場参照のこと。なお、文中太字推薦されている構成資産もしくは当初推薦予定見送られ物件を示す。 群馬県一帯古くから養蚕業がさかんであり、沼田市には「薄根の大クワ」が残る。これは天然記念物指定されている日本最大ヤマグワの木で、樹齢1500年と言い伝えられている。地元人々からは神木として崇められてきた木で、養蚕業地域結びつき深さ伝えている。養蚕業地域住宅建築とも密接に結びついており、1792年ごろに建てられ冨沢家住宅(とみざわけじゅうたく中之条町重要文化財)や、明治時代末葉から昭和初期形成され赤岩地区養蚕農家群(中之条町重要伝統的建造物群保存地区)などは古い養蚕農家形式伝えている。 そんな群馬県器械製糸官営模範工場建てることが決まったのは1870年のことであった富岡の地が選ばれたのは、周辺での養蚕業がさかんで原料の繭の調達しやすいことなどが理由であり、建設当たっては、元和年間富岡を拓いた代官中野代官屋予定地として確保してあった土地公有地農地)として残されていたため、工場用地一部として活用された。フランス人ポール・ブリューナ雇いフランス製糸器械導入した富岡製糸場1872年おおよそ完成し、その年の内操業始まった一般向けにも公開されていたこの製糸場は、見物人たちに近代工業とはどのようなものかを具象化して知らしめた。そして、全国から集められ工女たちは、一連の技術習得した後、出身地に戻るなどして各地器械製糸場で指導に当たり、その技術地域伝えることに大きく貢献した他方で、群馬では器械製糸はなかなか広まらなかった。その一因伝統的な座繰り」を基にした製糸伸長していたことにあり、品質管理のために組合組織されていた。そうした組合一つ甘楽社(かんらしゃ)であり、旧甘楽小幡倉庫きゅうかんらしゃおばたぐみそうこ)は組合製糸保管庫として使われていた倉庫である。 富岡製糸場役割は単に技術面貢献とどまらず近代的な工場制度日本もたらしたことも指摘されている。富岡工女たちの待遇は、『あゝ野麦峠』『女工哀史』などから想起されるような過酷なものではなく、特に当初おおむね勤務時間休日整っていた。そうした制度は、民間伝播する中で、労働監視管理強化されていき、富岡製糸場自体民間への払い下げ経て労働強化されていく方向へと変化することになる。 さて、富岡製糸場操業開始したのと同じ1872年養蚕技術について書かれた本としてはベストセラーになる1冊の本が刊行された。『養蚕新論』がそれであり、著者島村(現伊勢崎市境島村)の養蚕農家田島弥平であった田島弥平はその年に発足した蚕種販売業島村勧業会社副長副社長)に就任した人物であるとともに島村普及していた「清涼育」の発案者であった清涼育とは育成法の一つで、蚕室温度・湿度変化が繭の質にも大きく影響する養蚕業にあって換気通風よくして育て手法である。島村養蚕農家には、この育成法に適した形態大型民家、すなわち総二階瓦葺き屋根換気用の「ヤグラ」が設置されている民家多かったそうした養蚕民家原型といえるものが、いまなお田島弥平の子孫が暮らす私邸田島弥平旧宅たじまやへいきゅうたく)である。 田島弥平の「清涼育」などからは、「清温育」(せいおんいく)の手法が生まれたこの手法を開発したのが高山村(現藤岡市高山)の高山長五郎で、彼の養蚕改良高山組」は高山社たかやましゃ)へと発展した高山社は清温育の研究及び教育行なっており、併設した蚕業学校分教場各地作り、清温育の普及貢献した高山社跡は、かつての高山社養蚕技術改良普及果たした役割伝えている。 製糸業発展に伴い、繭の増産求められるようになった増産のためには、蚕種孵る時期遅らせ、夏や秋に養蚕する数を増やす必要が出てくるが、そこで活用されたのが風穴であった。夏でも冷暗風穴存在は、気温の上昇が孵化目安となる蚕種のまま留めおくのに適している。もともと蚕種保存への風穴利用長野県1865年慶応元年5月始まったとされている。長野その後蚕種貯蔵風穴の数を増やし明治30年代にはその数30上で他県凌駕していた。群馬ではごく例外的な単発利用除けば本格的な風穴利用明治30年代後半まで見られない。その群馬での風穴利用初期作られ日本最大級蚕種貯蔵風穴成長したのが荒船風穴(あらふねふうけつ)である。荒船風穴1905年から1913年までに3つの風穴整えられた。これを作り上げたのが庭屋千壽(にわやせんじゅ)とその父の静太郎であった千壽高山社蚕業学校卒業生であり、在学中長野風穴などについての知見得ていたことが役に立った群馬ではそのほか1907年蚕種貯蔵始め県内第2位規模だったとも言われる栃窪風穴(とちくぼふうけつ)などが残る。 荒船風穴近く発達した鉄道上野鉄道こうずけてつどう。現上信電鉄)である。1897年高崎下仁田結んで開通したこの鉄道は、生糸、繭、蚕種運搬などを目的開かれた鉄道であり、筆頭株主三井銀行富岡製糸場当時三井家属していた)、株主半分以上養蚕農家であったこうした鉄道による生糸などの運搬ということでは、碓氷越え果たし長野群馬結んだ碓氷線1893年開通)の存在大きかった碓氷線は絹産業との関わりだけでなく、日本の鉄道史にとっても重要なものであり、碓氷峠鉄道施設1993年いわゆる近代化遺産の中で最初重要文化財指定されることになる。 さて、日本近代化および絹産業の発展寄与した富岡製糸場は、1893年三井家払い下げられ1902年には原富太郎経営する合名会社に、1939年には片倉製糸紡績株式会社(現片倉工業)に売却された。片倉第二次世界大戦中保有していた62製糸工場次々と廃止または軍事転用せざるをえなくなり製糸工場として操業続けられたのは3分の1程度に過ぎなかったが、富岡はその中に含まれていた。戦後繊維産業衰退していく中でも富岡製糸工場として1987年まで稼動続けたその間新たな機械導入されることもあったが、もともと巨大作られていた工場は、改築などを必要とせずにそうした機械受け入れることができ、建物自体当初の姿を残し続けることができた。

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