【松代大本営】(まつしろだいほんえい)
大東亜戦争(太平洋戦争)末期、大日本帝国政府が連合国軍による本土への空襲や関東への地上部隊上陸侵攻に備え、皇居・政府・大本営などをを東京から避難させるべく長野県・松代を中心とする地域に建設した、大規模防空壕群の総称。
当時、帝国陸軍では同地以外にも、本土防衛のための高級司令部を地下へ移転させる計画を持っていた。
その中で、大本営の移動先として同地を選んだのは「本州の中で海岸線から最も遠い」「岩盤が強固」「急降下爆撃の困難な乱気流がある」「近くに飛行場がある」「労働力が豊か」「住民の心が純朴で秘密も守られやすい」「『信州』は『神州』にも通じ、品格がある」などの理由であったという。
「松代倉庫」という秘匿名称のもと、1944年11月から突貫工事で建設を進めたものの、工事が8割程度進んだところで終戦を迎え、放棄された。
現在は、防空壕の一部が気象庁の地震観測施設や信州大学の宇宙線観測所として利用されている他、長野市観光課により一般公開されている区画がある。
関連:大本営
余談:天理の大本営
本項であげた松代の大本営施設は、陸軍の主導により設計・建造が進められたものであったが、終戦直前になって、海軍が連合国軍の南九州上陸を想定し「より作戦指揮が取りやすい」との理由などから、奈良県・天理周辺に皇居や大本営を移転させる地下壕の建設を計画、実際に工事も行っていた。
松代大本営跡
(松代大本営 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/26 02:55 UTC 版)
松代大本営跡(まつしろだいほんえいあと)は、太平洋戦争末期、日本の政府中枢機能移転のために長野県埴科郡松代町(現長野市松代地区)などの山中(象山、舞鶴山、皆神山の3箇所)に掘られた地下坑道跡である。
注釈
出典
- ^ 松代町郊外に地下大本営を構築(昭和20年10月27日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p661 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ ミリタリークラシックス5巻第11号 イカロス出版 Jウイング8月号別冊 2003年8月
- ^ a b 長野市松代の地下壕工事前に別の計画? 大本営移転計画前に、請負業者の出張所存在か(2023年5月23日掲載) 信濃毎日新聞、2023年8月15日閲覧。
- ^ a b c 西条地区を考える会 『松代でなにがあったか! 大本営建設、西条地区住民の証言』 竜鳳書房 2006年1月, p. 13 “第一章 強制疎開と地下壕建設”. ISBN 978-4947697295
- ^ 吉田春男 “松代大本営建設回顧録” 昭和39年2月 in 西条地区を考える会 『松代でなにがあったか! 大本営建設、西条地区住民の証言』 竜鳳書房 2006年1月, p. 131. ISBN 978-4947697295
- ^ 稗田和博「玉砕か?逃避行か?今に残る松代巨大地下壕」『ビッグイシュー日本版』第124号、有限会社ビッグイシュー日本、大阪市、2009年8月1日、12頁、2017年5月17日閲覧。
- ^ a b 西条地区を考える会, 2006, p.74 “第二章 朝鮮の人々の思い出”.
- ^ a b c d e f g h 稗田和博「玉砕か?逃避行か?今に残る松代巨大地下壕」『ビッグイシュー日本版』第124号、有限会社ビッグイシュー日本、大阪市、2009年8月1日、13頁、2017年5月17日閲覧。
- ^ a b 海軍中枢の長野市移転計画裏付けか 安茂里の地下壕採掘経緯記した書簡の写し見つかる 信濃毎日新聞、2022年10月15日閲覧。
- ^ a b 海のない長野に海軍が地下壕を掘った?その意図は? NHK、2022年8月17日閲覧。
- ^ “「大本営海軍部壕」と資料館”. 週刊長野. 2021年12月13日閲覧。
- 1 松代大本営跡とは
- 2 松代大本営跡の概要
- 3 動座用車両
- 4 慰安所
- 5 海軍壕
- 6 外部リンク
松代大本営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:14 UTC 版)
戦争末期の松代大本営の建設工事でも、工事に携わる朝鮮人労働者の為に慰安所が設置された:7,8:140,141。 警察が借り上げた建物で慰安所を経営していたのは、朝鮮人の夫婦で、夫婦が朝鮮人慰安婦を松代に連れて来た:141。利用者はもっぱら現場頭など上層の朝鮮人で、日本人の軍人は利用しなかったという:8。
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