日本の居酒屋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:01 UTC 版)
『古事記』に登場する逸話や歌から、8世紀初頭までには定着していた。「造酒司(みきのつかさ)」と呼ばれる役所の管轄の下、醸酒料としての米が租税として徴収された733年の記録が残っている。797年に書かれた『続日本紀』には、761年に葦原王が居酒屋で酔って殺人事件を起こした記録が残っている。ただしこの時は中国大陸の言葉である「酒肆(しゅし)」と書かれていた。 奈良時代になると貨幣経済も始まり、仏教寺院などで酒の醸造と提供が始まり、神社関連も醸造を行うようになる。やがて平安時代から室町時代にかけて民間業者が醸造を行うようになり「醸造屋」と呼ばれるようになった。「醸造屋」は当初、貴族階級の富裕向けであり、庶民の飲酒行為は、811年の規制法等によって、祭り以外の飲酒が規制されていた。醸造屋が全国に波及するのは、11世紀頃と言われている。 鎌倉時代になると貨幣経済が都市部で本格化し、武士階級に酒を提供する醸造屋が現れた。これらは「好色家」と呼ばれ、酒類の提供だけでなく売春業も行っていたようである。酒を巡ってのトラブルも多発したため、1252年(建長4年)の10月には、酒壺の破棄指令が出たほどである。その後、鎌倉時代の末期になると、ようやく商人階級に酒類を提供する醸造屋が登場する。 室町時代になると醸造屋は一定の権力を持ち、幕府から課税対象とみなされるようになる。この頃の醸造屋は同時に金貸しをやっており、庶民に対して積極的に金を貸すと同時に、酒類も提供していた。また室町時代から、醸造と提供の分離が始まり、酒の提供に特化した「酒屋」や茶も出す「茶屋」が登場するようになる。その後戦国時代になると各大名が領内の経済強化のために酒屋や茶屋を積極的に保護した。都市部や街道沿いには庶民相手の居酒屋が建つようになる。 居酒屋の本格的な発展は江戸時代頃になる。酒の量り売りをしていた酒屋(酒販店)で、その場で酒を飲ませるようになり、次第に簡単な肴も提供するようになった。酒屋で飲む行為を「居続けて飲む」ことから「居酒」(いざけ)と称し、そのサービスを行う酒屋は売るだけの酒屋と差別化するために「居酒致し候」の貼紙を店頭に出していた。現在でもこうした酒販店に付属する形式の立ち飲みスタンドは残存しており、近隣住民の気軽な社交場として機能している例も見られる。他にも煮売屋が酒を置くようになったことに始るもの、また屋台から発展したものなどの別系統もある。江戸は男女比率が極端に男性に偏っており、一人住まいの独身男性が多かったことから酒が飲めて簡便に食事も取れる居酒屋は大いに広まっていった。一方、農村部は最後まで居酒屋の普及が遅れ、18世紀後半まで待たなくてはならなかった。 明治時代になると文明開化の名の下、ビールなど洋酒が流入し、1899年には東京の銀座に富裕層向けの「恵比寿ビアホール」が設立された。その後、カフェやキャバレー等の洋風居酒屋が相次いで流入した。1939年にはビール生産量が太平洋戦争前のピークを迎えている。太平洋戦争末期の1944年、『決戦非常措置要綱』により多くの飲食店やカフェーが閉店に追い込まれ、一方で1人ビール1本または日本酒1合に限る公営の国民居酒屋が登場した 戦後の1960年を境に日本酒と洋酒の消費量が逆転することになった。 1970年代頃までは居酒屋といえば男性会社員が日本酒を飲んでいる所というイメージが強かったが、近年は女性にも好まれるようにチューハイやワインなど飲み物や料理の種類を豊富にしたり、店内装飾を工夫したお店が多くなり、女性だけのグループや家族連れを含め、誰でも気軽に利用できる場所というイメージが定着しつつある。 特に1980年代頃から居酒屋のチェーン店化が進んだ。このことで、居酒屋は安く、大人数が集まることができ、少々騒いでもよく、様々な人の好みにあわせて飲み物や料理を選べるというメリットを持つようになった。このため、学生・会社員・友人同士などのグループで「簡単な宴会」を催す際の会場としてよく用いられている。チェーン店を中心に基本的には低価格で気軽に飲食できることを売りにしている店が多く、そのため男女に関わらず広い層を顧客としている。
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