文学理論
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文学理論(ぶんがくりろん、英語: literary theory)とは、「文学とは何か」を構築するための理論である。文芸批評とは異なり、個別の作品の読み方ではなく、そもそも文学とは何か、あるいは何を目指すものか、どのように構成されているか、という根本的な問いを探求するものであり、作品の批評とは通常区別される。
概要
文学が理論的な対象とされたのは古代ギリシアの哲学者であるアリストテレスの『詩学』にまで遡ることができるが、20世紀初頭におけるロシア・フォルマリズム、そして1930年代から1940年代にかけてのイギリスやアメリカにおけるニュー・クリティシズムが本格的に取り組み始めた。近代文学理論の成立によって作者の意図を探ることを離れ、テキストそのものの形式や手法を研究対象とすることが可能となった。1960年代に入ると、現象学、構造主義、記号学などの哲学の研究成果を応用した新しい文学理論が登場し、文芸評論の枠組みを拡大させることに寄与した。1960年代以降、ポスト構造主義が文学理論に影響を与え、脱構築(ディコンストラクション)や精神分析学の活動があり、フェミニズムやクイア理論はジェンダーやマイノリティの言説について分析した。新歴史主義(ニューヒストリシズム)、ポストコロニアル理論などが文学に影響を与えた。こうした文学に対する価値基準そのものが「文学理論」であり、それによって示された方法を用いて実際の作品を対象として評論や批評したものは文芸批評である。
文学理論のいろいろ
その他に文学理論として扱われるものに次のようなものがある。
- 文化唯物論(カルチュラル・マテリアリズム)
東アジアには、曹丕『典論』、劉勰『文心雕龍』、空海『文鏡秘府論』などの文学理論書がある。夏目漱石は『文芸の哲学的基礎』を書いた[1]。
関連項目
出典
外部リンク
文学理論
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文学作品、特に小説は、通常一人称小説と三人称小説に分けられる。しかし、一人称小説が登場人物の視点であって三人称小説が語り手の視点であるとは、もはや言い切れなくなっている。シュタンツェル(1979)は一人称/三人称の対立と内的遠近法/外的遠近法の対立、語り手/映し手の対立を区別し、ジュネットは従来の研究では「語り手は誰なのか」と「誰が見ているのか」とが混同されていると指摘している。そのため、近年ではジュネットなどが用いる「焦点化」などの用語が一部で好まれるようになってきている[要出典]。 ジュネットは従来の一人称小説を「等質物語世界的」と称し、三人称小説を「異質物語世界的」と称した[要出典]。そして視点のありかたによって「焦点化ゼロ」「内的焦点化」「外的焦点化」の3分類とした[要出典]。焦点化ゼロとは全知の視点であり、内的焦点化はある登場人物の視点を取るものであり、外的焦点化は主人公の外面のみを描くものである[要出典]。 ジュネットの分類作者が支配する(焦点化ゼロ)行為者が支配する(内的焦点化)中立的(外的焦点化)異質物語世界的フィールディング『トム・ジョーンズ』 ヘンリー・ジェイムズ『使者たち』 ヘミングウェイ「殺し屋」 等質物語世界的メルヴィル『モービー・ディック』 ハムスン『飢え』 シュタンツェルの体系では、例えば一人称小説の場合「物語る私」と「体験する私」の両方の側面があるため、作品によって「内的独白」の担い手から「目撃者」や「編者」の役割まで幅広い「私」が存在する。また三人称小説の場合も、語り手が物語世界の外から「全知の視点」で語るものから、三人称の登場人物が「映し手的人物」として振る舞い、一人称に置き換えても問題のなさそうなものまで幅広い。ここで「映し手」とは、考えたり、感じたり、知覚したりする登場人物のことであり、読者は映し手の目に映った他の登場人物・情景を眺めることによって作品世界を理解することになる。
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