教育と職歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/20 15:51 UTC 版)
「ウィリアム・バートン・ロジャース」の記事における「教育と職歴」の解説
父から教育を受け、メリーランド州ボルチモアの学校に通い、さらにウィリアム・アンド・メアリー大学を卒業。1827年、メリーランド・インスティテュート(英語版)で科学についての一連の講義をしている。1828年には父の後を継いでウィリアム・アンド・メアリー大学で自然哲学の教授となり、1835年まで務めた。その間、露やボルタ電池を調査研究したり、東バージニアによく見られる緑砂(英語版)やカルシウム泥灰土とそれらの肥料としての価値について一連の論文を書いた。 1833年、地質学がブームになっていたイングランドから弟ヘンリーが帰国。その影響を受け、ウィリアムも地質学の研究を開始した。そして緑砂に関する論文の実用的価値がバージニア州議会の目にとまった。ロジャースはその機会を利用してバージニアの地質調査の必要性を訴え、1835年に地質調査の指揮を任された。 1835年までに弟ヘンリーがペンシルベニア州に地質学者として雇われており、2人は共同でアパラチア山脈の地質調査を行った。その共同調査で、鉱物や岩石の水への溶解性について研究し、石炭層がそれを取り囲む地層による擾乱が大きいほど揮発性成分が抜けて固くなることを明らかにした。2人が共同執筆した論文 “The Laws of Structure of the more Disturbed Zones of the Earth's Crust” で初めて山脈の波動理論を提唱。さらにウィリアムは断層の分布の法則を提唱。1842年には調査が終了となった。というのも州の税収が1837年から減少したため、地質調査の予算が削減されたためである。その間に6巻の著作 “Reports of the Geological Survey of the State of Virginia” (Richmond, 1836–40) を出版したが、発行部数は少ない。後に Jed Hotchkiss がその内容をまとめ、地図を添えた Papers on the Geology of Virginia (New York, 1884) を出版した。 1835年、地質調査と並行してバージニア大学 (UVA) の自然哲学の教授に就任。そこでカリキュラムに鉱物学と地質学を加え、地質学、化学、物理学の研究を行った。UVAの哲学部門の責任者として、バージニア州議会の「名誉学位」授与の要請を断わり続け、1853年には抗議の意味をこめて辞職した。なお、MITはその歴史上名誉学位を授与したことがない。実際、1848年には辞表を提出していたが残るよう説得されていた。1849年、ボストンのエマ・サベージと結婚。 辞職後ボストンに移り、ボストン自然史学会(英語版)とアメリカ芸術科学アカデミーの後援の下で活発に活動。このころの論文はそれらの会報や American Journal of Science に発表している。1859年ごろから、大規模な調査研究と有益な知識の一般への普及という機能を兼ね備えた技術教育機関創設という構想にボストンの人々の関心を集め始めた。これが最終的にマサチューセッツ工科大学創設へとつながっていき、彼はその初代学長となった。 1861年、マサチューセッツ州からガスおよびガスメーターの検査官に任命される。ロジャースはそれをしぶしぶ受け入れ、測定標準を改善した。1862年には “The Application of Science to the Arts” と題した一連の講義を行った。
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教育と職歴
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「アーロン・ハルフェイカー」の記事における「教育と職歴」の解説
ハルフェイカーはセント・スコラスティカ大学(英語版)で計算機科学の学士号を2006年に取得した。セント・スコラスティカ大学では、ハルフェイカーは最初は理学療法専攻として研究を始めたが、同大学の助教授ダイアナ・ジョンソンによるプログラミングの授業を受けたことがきっかけとなり、専攻を計算機科学に変更した。その後、ハルフェイカーはミネソタ大学ツインシティー校に進学、グループレンズ・リサーチ(英語版)と呼ばれる研究室に所属し、2013年に博士号を取得した。ハルフェイカーはウィキペディアについての研究、特にウィキペディアの活発な編集者数の減少についての研究で知られている。彼はウィキペディアについて、2007年ごろから「衰退期」に入り、それ以来衰退を続けていると主張している。ハルフェイカーは、ボットと呼ばれる、自動化されたウィキペディアのアカウントについても研究し、ウィキペディアへの新たな貢献者に影響を与える方法についても考察してきた。大学院生時代には、ハルフェイカーはR・スチュアート・ガイガーと共に、ウィキペディアの新たな編集ツールを開発した。このツールは「Snuggle(英語版)」と呼ばれている。Snuggleの目的は、荒らし(英語版)やスパム投稿を削除し、新しい編集者による建設的な貢献を目立たせることにあった。ハルフェイカーは、「目的版評価サービス」(Objective Revision Evaluation Service、略称ORES)と呼ばれる人工知能エンジンも開発した。 ORESは、ウィキペディアにおける荒らし投稿を特定し、信頼できる良い編集と区別する目的で開発された。
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