形態と素材
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/03 00:31 UTC 版)
表現主義建築の形態は、先行するアール・ヌーヴォーやユーゲント・シュティールから分離することによって表現主義建築を定義する役割を果たした。アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデは、装飾や当時の同傾向のものから個人主義的で象徴的な形態概念へと自分の建築を移行させることができた。アール・ヌーヴォーは装飾に関して構成的な自由を保持していたが、表現主義の建築家たちは部分的にではなく建築全体の形態を自由に解放するべく努めた。実際に建てられたものばかりでなく図面上の作品からもそれは明らかである。フィンスターリンの"Formspiels"は不定形な構成要素の集積へと転じた建造物の形態を例示している。またブルーノ・タウトの『アルプス建築』は、その全ての骨格が結晶構造に変えられた冷ややかに光る建造物として構想されている。 表現主義建築の斬新な形式の例としては、メンデルゾーンのアインシュタイン・タワーがある。相対性理論を証明する天文学の実験のために制作されたこの塔は、相対的かつ変動的な幾何学的見地を示している。実用的な装飾は排され、形態と空間は設計者およびビルの名前の由来となった人物の考えを表現するために(メンデルゾーンは「アインシュタインの宇宙をめぐる神秘から」この塔を設計したと語っている)生コンクリートで建造された(ただし実際上の困難からすべてコンクリートを用いて作ることはできず、部分的にはレンガの上に漆喰を塗り重ねることとなった)。 アインシュタイン・タワーばかりでなく大量の図面において示されるように、メンデルゾーンの形態に関するセンスは非常に強力なものだった。芸術史学者ヴォルフガング・ペーントは「メンデルゾーンはその設計図(どこからも依頼を受けたものではなかった)においてもっぱら容積について考えており、機能は二の次であった」、同時代の表現主義建築家ガウディは「論理的な形式の表現として現れる巨大な彫刻の集まり」を作るためにアール・ヌーヴォーの装飾的な自然から逃れえたのだと語っている。 曲線的な幾何学的配置を多用したため、表現主義建築ではドーム型の建物が多く作られた。曲線的な建築は当然ながら曲線的な屋根を必要とするためである。ベルリン大劇場の内部も半球形をしていた。フィンスターリンのFormspielsは、非対称で擬人化されたドームである。グラス・パヴィリオンやヴォルプスヴェーデの"Käseglocke"(「チーズカバー」の愛称で呼ばれる小屋?)など、ブルーノタウトの作品の多くもまたドーム型であった。タウトの『アルプス建築』はコールリッジの詩『クーブラカーン』に登場するドーム型宮殿のようなエキゾチックな魅力をもっている。 曲面だけでなく、水平面および垂直面の劇的な強調も表現主義建築の意匠として挙げることができる。法的な事情から表現主義的な形態がもたらされるようになった例であるが、1916年、ニューヨーク市は都市計画に関連して建造物一棟あたりの面積を制限する条例を発布した(当然それぞれのビルは上へ伸びてゆかざるをえず、これが摩天楼の発展を促すこととなった)。この条例によって建築物はどのように進化してゆくこととなるかを示したヒュー・フェリス作成の立体図は、照明の強いコントラストが形態を浮き上がらせるのに用いられていることなどから、表現主義の映画の影響を受けていることが見て取れる。それらの図版は1926年にドイツの雑誌『Baukunst』において発表され、のち1929年にフェリスの著書『The Metropolis of Tommorrow』(この本のタイトルも、1927年の映画『メトロポリス』から取られたものと見られている)へ収録された。 表現主義建築のモダニズムへの寄与にあたっては、形式主義の傾向が誘因となった。1912年にカンディンスキーは「形式こそが内容を表現するのであり、しかも多くの例においては形式そのものが内容となっている」という説を提唱した。のちに新即物主義へと転じる表現主義者たちの仕事は形式を出発点としたが、細部で歪みをもたせるにとどまっていた。ペーター・ベーレンス、ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエらは(若干の例外はあるにせよ)規範的な形態に則り、幾何学の秩序に依拠して新たな建築概念を提示するために直角的な幾何学構造を用いた。 形態と並んで、表現主義建築家にとって永遠の課題となるのが素材である。1919年ベルリンのパウル・カッシーラーのギャラリーで行われたメンデルゾーンのスケッチ展のタイトルは『鉄とコンクリートによる建築』であった。建物を画一的にするために材料を統一するという意図がしばしば見られた。ブルーノ・タウトと詩人ポール・シェーアバルトのガラス建築がその例である。彼らはガラス建築の可能性に関する主張を文書として発表し、実際に1914年の第1回ドイツ工作連盟展でグラス・パヴィリオンを造った。ドームの土台周辺には素材に関するシェーアバルトのアフォリズムが刻まれた。 「色ガラスは憎しみを破壊する」「ガラスの宮殿なしに生きることは重荷である」「ガラスは我々に新時代をもたらした。レンガでの建築は我々に危害しかもたらさない」 ―― パウル・シェーアバルト、グラス・パヴィリオンへの刻銘 表現主義の素材の統一に関するもう一つの例はメンデルゾーンによるアインシュタイン・タワーである。ここで塔に冠された人物名に関するシャレ(ein stein = 一個の石)を見逃すことはできない。一繋がりの型にコンクリートを流し込んで造ったわけではないが(前述の通り、技術的限界からレンガと化粧漆喰が部分的に使用された)、少なくともメンデルゾーンは当初そのようなものとして構想しており、型へ流し込まれる前のコンクリートの流動性を表す効果がこの塔には見られる。 表現主義建築家の誰もがシェーアバルトのようにレンガを拒絶したわけではなく、素材の性質を表現するという同じ目的でレンガを使用した者もおり、ヨーゼフ・フランケ(英語版)は1920年代の初頭にベルリンほか各地で表現主義様式の教会を数多く建立している。またグラス・パヴィリオンの設計者ブルーノ・タウト本人も「住宅団地カール・レーギエン」(Carl Legien Housing Estate)で質感・量感と反復を表現する方法としてレンガを使った。アーツ・アンド・クラフツ運動の場合のように、ポピュリズムや自然主義などさまざまな議論がレンガの使用のために関連付けられた。その色彩と点描によってレンガが表現主義に対して果たした役割は、化粧漆喰が国際的なスタイルにおいて果たしたのと同じものだった。
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