形態と着用機会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 04:15 UTC 版)
束帯装束に着用する半臂の初期の形態は不明だが、後世のものは、舞楽装束の半臂同様、垂領で衽を重ねる形式の腰丈の胴着で、裾に襴がぐるりと縫い付けられている。身は二幅で、袖はない。襴には横と背後に多くの襞が取られ、動きやすく出来ている。正倉院伝来の半臂は裾に紐が縫いつけられているが、束帯の半臂はいつしか独立した「小紐」で結びあわせるようになった。小紐には「忘緒」(わすれお)という飾り紐を通して垂らす。中世以降の記録によれば、忘緒は襴と同じ生地で、長さ1丈2尺(約3メートル半)、幅3寸3分(約10センチメートル)の帯形に作り、これを三重に折りたたんで左腰に通した(『装束雑事抄』等)。 半臂は袍の種類や地質、着用機会によって着けないこともあった。『西宮記』によれば、天皇は冬も必ず半臂を着るが、上位の官人は必要な場合のみ着用した。平安時代末期までには、文官や五位以上の武官が通常着用する縫腋袍の場合、冬は半臂を着用せず、夏のみ着用するようになっていた(『満佐須計装束抄』等)。これは、冬の袍は裏地があって内衣が見えないのに対し、夏の袍は薄物の生地で裏地もなく、内衣が透けて見えるためである。一方、下位の武官や童、また特定の行事の際に用いられる闕腋袍の場合は、両脇のスリットから半臂が見えるため、冬も半臂を略することはなかった。また、行幸や饗宴、五節等、舞や酒席等のために肩脱ぎをする場合や、騎馬の際には、冬の縫腋袍であっても、半臂を着けた。縫腋袍の下に着る半臂は襴や忘緒を見せる機会はないので、後には襴のない胴だけの「切半臂」を用い、下襲の裾の腰紐で結んで着用することが増えた(『装束雑事抄』等)。 近世には、山科流は胴と襴を別に作った切半臂、高倉流は胴の下に襴を縫いつけた本来の形式である「続半臂」(つづきはんぴ)を調進するのを例とした。山科言継が16世紀半ばに天皇の喪服である錫紵を調進した際には、布製の闕腋の袍の下に着る布の半臂は胴と襴をわけて調進している。また、徳川家慶墓には夏の束帯一式が納められたが、襴のない切半臂の胴だけがその中に含まれていた。中世の例を復古的に模したものとみられる。
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