左多六伝説・老犬伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 15:14 UTC 版)
鹿角市の草木地区には左多六の伝説が数多く残っている。次の伝説のうち左多六のものは草木地区のもので、老犬シロのものは葛原のものである。 左多六さまは恐い「荒神」で、ついこの間の三代から四代前まで生きていた。左多六さまを呼び捨てにすると、すぐにその場でどんな仕返しがあるか、罰があたるか分からないものであった。 ある時、三人の若者が集まって「荒神さまは、どんなに恐い神様だろうか」「幾ら神様でも火を付けて焼いてしまえば何ともできないだろう」「そうなら、マッチで火を付けてしまおう」と相談し、三人目の若者がお堂に火を付けようとした。すると、焼けと言った若者から腹がいたくなり、若者たちは死んでしまったという。荒神さまとは左多六さまのことであった。 ある田植え時、左多六さまはケラを着て、モンパをかぶり、カンジキを背負って、ツマゴを履いて八幡平の山に狩りに出かけた。その時、柴内集落では田植えをしていたが、変な格好をして歩いている左多六さまを見て大声で笑った。あまり人を馬鹿にするので、怒った左多六さまは家に戻り「今に見ていろ」と言って、皆が田植えをしている所に、カンジキを逆さに履いて歩いて見せた。村人たちはますます馬鹿にする。ますます怒った左多六さまは「この阿呆が。今に見ていろ」と言って呪文を唱えた。すると、晴れていた空が暗くなり、寒い風が吹いてきて雪が降ってきて、たちまち一尺も積もった。柴内の人々は寒く、恐ろしくなって家に逃げた。「恐い人もいたもんだ。これからは軽口もきけないな」と恐れたという。 左多六が狩りに出かける時は、米を一升も食べてから出かけた。山に行って、一週間も十日も何も食べないで水ばかり飲んで、その代わり食べる時にはうんと食べて生きていたものだ。 左多六は夏は綿が一杯入った「ドンブク」というものを着て、冬は薄い麻の単衣着物を着ていた。代官さまから「夏なのに、暑くないか」と聞かれると、襟を合わせて「寒い寒い」と震えて見せる。冬になって「寒くないか」と聞かれると「ああ、ぬくいぬくい」と言って、平気な顔で扇であおぐ。ゆっくり歩いているかと思うと急に姿が見えなくなり、どんな用事でも人より二倍も三倍も早く用をたして涼しい顔をしていた。 左多六はある時、皮投岳に狩りに出かけた。晩になって「山人という者がいるそうだが、会ってみたいものだ」と独り言を言った。その夜、遅くなってから左多六の小屋に「友達に会いに来た」と言って山人が来た。山人は大きな人だったので、小屋にのしかかったら小屋が壊れそうになった。「左多六さまの免状を見せて欲しい」と何度も山人が頼むので、左多六が見せると山人は「むにゃ、むにゃ」と呪文を唱えて、それから「何でも言うこと聞くから弟にして欲しい」と何度も頼んだ。左多六は「ただでは駄目だ」と言うと。山人は「熊の子を五匹連れてくるから弟にしてくれ」と言ってどこかに出かけた。なかなか帰ってこなかったが「ほれ、契約料だ」と熊の子を五匹連れてきた。次の日の朝まで、大きなカモシカを五匹殺して皮を剥いで持ってきて「お土産だ」と言って、沢山置いて行く。左多六は家に帰る時にカモシカの皮があまりに重くて皮を投げた所が皮投岳で、カモシカの五匹の身を投げた所を五の宮岳と言うようになった。 左多六はあるとき、四角岳に狩りに出かけた。四角岳には一人の荒神がいて、左多六の家来であった。左多六は四角岳や中岳で狩りをして、カモシカの皮を一杯取った。左多六は四角岳の荒神に「このカモシカの皮を背負って、家に行ってくれ」と頼んだ。荒神は「馬鹿臭い」と言いながら下草木まで背負ってきた。家では左多六の妻が荒神に「まず、飯を食べていけ」と飯を食べさせた。左多六の子供が荒神を「山の猿の顔のようだ」と大声で笑うと、荒神はおこって子供の指をかじってしまう。荒神がそのまま知らないふりをして四角岳に帰ると、左多六から「家に行っていたずらしてきたな。生かしておけない」と怒られる。荒神は「命だけは助けて下さい」と寒中の雪の上に、七日七晩座って、朝夕に水垢離をとって、ようやく許して貰えたという。 左多六が四角岳で撃ったカモシカはヘットウ羚羊と言い、色は白っぽい灰色だった。左多六はマタギでは名人であったが、マタギの躾をあんまり厳しくしたために、四角岳の荒神がヘットウ羚羊に化けて、手負いした振りをして、猿喉角良(えんこかくら)まで逃げて、わざと撃たれて、左多六を捕らえさせた。また、左多六はあまり又鬼が上手であったために、他の又鬼達に拒まれて、間者(スパイ)にされて縄を掛けられた。 左多六が三戸城で処刑され、首を切られた時、目はぎらぎらとあき、役人達をにらめ付け「生まれ変わって七代まで祟ってやる」と言ってから、三戸城の石段を転がって、下の熊原川に落ちて、鹿角の方に向かって流れとは逆に進んだ。 左多六の子孫が居住したと言われる佐五郎の家に、左多六が残した槍があった。それは左多六が気合いを入れるとどんな石臼でも楽に突き通した。しかし、他の人は突き刺すこともできない。それは、ついこの間まであったが、今は無くなったという。また、左多六が着た帷子もあった。「左多六さまのもんば」と言って皆が欲しがり、皆で少しずつ分けて持って行ったので今では無くなったという。 老犬さまがまだ生きていた頃、米代川に大水が出て、葛原の人が流された時があった。水の流れが激しく、誰も助けられなかった。しかし、老犬さまは川にザブンと入って、流された人を川岸に引き寄せて助けたという。 昔、葛原に行くには米代川を川舟で渡った。そこに犬の毛皮を着た立派な博労が川舟に乗ろうとした。しかし、何十年も川の渡しをしていた、年取った爺さんが皆に聞こえる様に「犬の皮を着ている奴は人間ではない。葛原の村に入らないでくれ」と言ってさっさと舟を出してしまった。葛原の住民は老犬さまを拝んでいて、犬の毛皮を着た者は絶対に村に入れなかった。 明治の初めの頃、葛原の若者が四五人で北海道のニシン場に稼ぎに出かけた。連絡船に乗り、寝ようとしたが、うなされてどうしても全員寝られない。不思議なことがあるもんだとあたりを見渡すと、北海道に馬を買いにいく博労が三四人、立派な犬の毛皮を着て乗っていた。若者たちは別のところで寝ると、安心して寝られたという。 葛原のある娘が、扇田に嫁に行った。働き者の良い嫁であったので、姑が気を使って下駄を買ってやった。ところがその日から嫁は腹痛や、頭が痛くなり稼げなくなった。姑は嫁が買ってもらった下駄を履いて遊びに行きたいのだと思ったので怒って「離縁するので、この下駄を履いて家に帰れ」と言った。仕方なく嫁が葛原に帰ろうとすると、その下駄は立派な犬の毛がついた下駄であった。娘は腹が痛くなり玄関に倒れてしまった。嫁は「あの下駄の爪皮を見たら、腹が痛くなった。何とかしてあの爪皮を取ってください」と泣いて頼んだ。姑が犬皮を取ると、嫁の今まで病んでいた腹がけろっと良くなった。また、元のように稼ぐ良い嫁さんになったという。 十二所の侍が三哲山の麓で乗っていた馬がどうしても動かなくなり、仕方なく馬から降りて手綱を引いて歩いた場所があった。しばらくして、葛原の村人がその場所で朝草を刈っていると、そこに老犬シロが死んでいた。村人たちは、シロの骨を全部拾って葛原に持って帰り神様として祭った。その時からそこを「降り橋」と呼ばれるようになった。 老犬シロを祀ってからも、葛原には火事や病気が絶えなかった。鹿角の方が見える高い所にもっと立派な神様として祀ったところ、葛原には火事も病気も無い、いい村になった。 ヘットウ羚羊が逃げた先は、三戸領内に深く入りこんだ、猿喉角良(えんこかくら)という断崖の岩谷であったとする話もある。猿喉角良は三戸城の北方(西方の誤り)4km程度にあり、昔は三戸鹿角街道はこの断崖の上を通っていた。海蝕崖に青松が生える風光明媚な場所である。 馬に乗った武士たちが必ず馬を降りて、手綱を引いて歩くようになった場所には小さな橋があったので、その橋は降り橋という名前が付けられた。しばらく経った後で、葛原の村人が付近で芝刈りをしていたところ、白骨化した老犬シロの死骸を見つけた。ここには、太平山と刻まれた大きな石碑が村人によって建てられた。根率場所は国道の改修工事のために、従来あった場所から移され三哲山の麓にある。 老犬神社の境内の参道の左側に、こんこんと湧き続ける清水がある。村人は「老犬さまの水」と呼んで、神様の恵みの水として利用してきた。苗代に発生する赤虫を退治する妙薬として、あるいは眼病の特効薬として、能代や津軽方面からも眼病の人たちが水を汲みに来たという。
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