外交官、陰謀家、スパイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 06:24 UTC 版)
「ルイ=アレクサンドル・ド・ローネー」の記事における「外交官、陰謀家、スパイ」の解説
まずスイスのローザンヌに逃れたアントレーグ伯爵はすぐに愛人のサン=ユベルティ夫人と合流した。二人は密かに結婚してイタリアに渡り、サン=ユベルティ夫人はそこで息子を出産した。アントレーグはヴェネツィア共和国でスペイン大使館の随員に任命され、スペインとの和平が成立すると、ロシア帝国の公使館の随員に任命された。1790年にはパリの王党派通信連絡組織を設立し、1793年にはプロヴァンス伯爵(後の国王ルイ18世)に仕えるスパイとなった。王位継承者となったプロヴァンス伯爵は、亡命宮廷を当時ヴェネツィア領であったヴェローナに移すと、アントレーグ伯爵を警察大臣に任命した。フランスからの圧力によって1796年にヴェネツィア政府はプロヴァンス伯爵を追放したが、それでもアントレーグ伯爵はヴェネツィアを離れなかった。 しかし、1797年にフランスがイタリアに侵攻するとアントレーグ伯爵は逃亡せざるを得なくなり、ロシアの外交官としての自信(彼はロシアに帰化していた)から、ロシア大使一行を引き連れて逃げた。しかし彼は家族とともにトリエステでフランス軍に逮捕され、ミラノに連行された。そこでアントレーグ伯爵はナポレオン・ボナパルトに尋問された。アントレーグが所持していた書類を押収して調べたナポレオンは、彼が反革命派のスパイとされるモンガイヤール伯爵(英語版)と将来の計画のための資金調達について話し合っていたことを発見した。モンガイヤール伯爵は、フランス共和国を裏切るように仕向けたジャン=シャルル・ピシュグリュ将軍(英語版)との交渉の詳細を記したノートを押収されていたのだった。この発見によってアントレーグ伯爵は軟禁されることになったが、それでも彼は家族を連れてオーストリアにたどり着くことができた。 その直後、後のルイ18世であるプロヴァンス伯爵はアントレーグ伯爵が自由と引き換えにピシュグリュとの取引やその他の王党派の秘密を自発的に暴露したのではないかと疑って、アントレーグによる奉仕を破棄した。アントレーグの逃亡は、ナポレオンの妻でサン=ユベルティ夫人の熱烈なファンであったジョゼフィーヌ・ド・ボーアルネの介入による可能性が高いと思われる。このエピソードの後、アントレーグは王位継承者であるプロヴァンス伯に敵対する勢力に加わった。1798年に彼はルイ16世の裁判において弁護人を務めたマルゼルブから、王が処刑される直前に書いた書類を託されたと宣言している。それらの書類によると、ルイ16世は弟が個人的な野心から王党派を裏切ったことを明らかにし、そのため弟にフランスの王位を継がせてはならないとしていた。 それからの5年間、アントレーグ伯爵の一家はロシア皇帝パーヴェル1世の許可を得てグラーツとウィーンに住み、複数の君主から報酬や補助金を受け取った。ウィーンではド・リーニュ公爵や、神聖ローマ帝国に駐在するスウェーデンの大使グスタフ・マウリッツ・アルムフェルト男爵と親交を深めた。 1802年、アントレーグ伯爵はロシア皇帝アレクサンドル1世の命を受け、ザクセン王国の首都ドレスデンにロシアの随員として派遣された。1806年にはナポレオンと第一帝政に向けて「ポリュビオスの断片」と題した暴力的なパンフレットを出版している。当時、抵抗する君主がほとんどいなかったナポレオンは、アントレーグ伯爵をザクセンから追放することを強硬に要求した。ドレスデンの宮廷がこれを受け入れたためアントレーグ伯爵はまずロシアに行き、そこでティルジットの和約の秘密条項を知った。その後、伯爵はロンドンに出て、外務大臣のジョージ・カニングや、ジョージ3世の息子の一人であるケント=ストラサーン公爵エドワード・オーガスタスと親交を深めた。滞在中にイギリス政府から多額の年金を受け取っていたことから、ティルジットの和約の秘密条項をイギリスの内閣に伝えたのはアントレーグ伯爵だと主張する人もいるが、伝記作家のレオンス・パンゴー(フランス語版)はこれらの主張に異議を唱えている。イギリスでは同じくフランスからの亡命者であるシャルル・フランソワ・デュムーリエらと頻繁に交流したが、オルレアン公爵(後のフランス国王ルイ・フィリップ)が宮廷を開いていたハートウェル(英語版)からは距離を置いていた。 1812年にアントレーグ伯爵夫妻は、ロンドンの南西郊に位置するバーンズにあるカントリー・ハウスで、デュムーリエから譲り受けたロレンツォというイタリア人の召使に殺害された。主人をスティレットで刺殺した後、ロレンツォはピストルで撃たれて死んでいるところを家の中で発見された。彼が撃たれたのか、または自殺したのかは現在では不明である。また、この殺人が個人的な理由で行われたのか、政治的な理由によるものかも明らかにされていない。動機として、単にサン=ユベルティ夫人がこの使用人を酷使していたためという説や、ナポレオンや後のルイ18世など、多くの人々がアントレーグの死を望んでいたため、彼は邪悪な政治的陰謀の犠牲になったという説もある。アントレーグが保持していた可能性のある政治的秘密の重要性は、この説にいくらかの信憑性を与えている。
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