外交・戦争政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 11:34 UTC 版)
「立憲民主党 (ロシア)」の記事における「外交・戦争政策」の解説
外交政策の分野では、1908年以後、党内でシンガリョフ(英語版)らのグループとミリュコーフらのグループのあいだで長期にわたる論争が生じている。前者のグループは、反政府的立場を明確にするために、政府とスタンスの近い外交政策を党綱領から削除することを主張した。後者のグループは、「非党派的見地」に立って積極的に外交政策を打ち出すことを望んだ。最終的にミリュコーフらの主張がとおり、カデットは反独親英などの諸政策を国会・新聞で訴えることとなった。 カデットが親英的な立場をとった背景には、イギリス政府が同盟国ロシアにおける立憲制の確立を望んでいたという事情があった。カデットはイギリス政府の力を借りることで、立憲的改革に向けての帝政政府との交渉を有利に進められると考えていたという。 第一次世界大戦については、西欧型の自由主義・民主主義を支持するという立場から、連合国側に立って戦いを継続するという姿勢をとった。レフ・トロツキーは、カデットが「戦闘的愛国主義の合唱でリーダーを務めた」と評している。実際に、第一次世界大戦が起きるとカデットは政府の支持を表明したし、党首ミリュコーフは戦争の完遂を訴えた。カデットはイギリスを模範として帝政政府による総力戦体制を支えた。 さらに、ミリュコーフは臨時政府の外相となった後も第一次世界大戦の継続を主張している。それだけでなく、第7回党大会においても、第一次世界大戦は単に皇帝が始めた戦いなのではなく「人類の自由と諸民族の権利のための戦い」なのだと主張するロジチェフによる報告が行われ、熱狂的に迎えられた。 こうしたカデットによる戦争継続の訴えの背景には、ダーダネルス海峡の確保といった帝国主義的な意図があったとされる。カデット党員の多くは戦争によるロシアの領土拡張と経済的地位向上を求めた。他方で、カデットには歴史学者アレクサンドル・キゼヴェッテル(ロシア語版)などのように、戦争後に恒久平和を実現するという理想主義的な目標を掲げる者もいた。 いずれにせよ、このようなカデットによる戦争政策は行き詰まり、西欧流の近代化を目指して総力戦を支持・遂行したために、かえってカデットの目標を否定するボリシェビキ政権の成立を招くこととなったとされる。
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