外交官・国連事務総長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 14:16 UTC 版)
「クルト・ヴァルトハイム」の記事における「外交官・国連事務総長」の解説
ウィーン大学で法学博士号取得後、1945年にオーストリア外務省に勤務する。1948年からパリ駐在のオーストリア公使を務めたのち、1951年からウィーンの外務省に戻り、1956年から1960年までのカナダ駐在大使を経て、1964年には国連のオーストリア代表に就任した。その後一旦国際連合を離れ、1968年からオーストリア国民党に所属して連邦外務大臣を務めた後、1970年に国際連合に戻った。 1971年にオーストリア大統領選挙に立候補するも落選し、同年の国連事務総長の選出で当時のオーストリア首相ブルーノ・クライスキーに推薦されて立候補するも、同年に第三世界の支持で可決したアルバニア決議で国際連合安全保障理事会常任理事国になった中華人民共和国は第三世界出身の事務総長を主張して2回とも拒否権を発動して第3回投票では2位だったものの、1位の候補者にソビエト連邦が拒否権を行使したことや中国の棄権により、同年12月21日に国際連合安全保障理事会決議306にて事務総長に指名され、12月22日に国際連合総会にて次期事務総長に任命され、1972年1月1日にウ・タントの後任として第4代国際連合事務総長に就任した。 1976年の事務総長の選出では、中国が支持したメキシコのルイス・エチェベリア候補と争うも第2回投票で中国が拒否権を放棄してヴァルトハイムの支持に回ったことで再選した。 1976年に国連で行われた中東和平国際会議の開催要求決議に沿って、1977年2月にはエジプトを訪問。サダト大統領などと会談して国際会議の開催を働きかけた。結果的に会議開催は成功しなかったものの、この年、サダト大統領がイスラエルを電撃訪問して限定的ながら和平が訪れた。 1981年からの3期目にも挑戦したが、事務総長の選出では16回という記録的な回数の拒否権を行使した中国の影響で断念し、ハビエル・ペレス・デ・クエヤルがヴァルトハイムの後任となった。
※この「外交官・国連事務総長」の解説は、「クルト・ヴァルトハイム」の解説の一部です。
「外交官・国連事務総長」を含む「クルト・ヴァルトハイム」の記事については、「クルト・ヴァルトハイム」の概要を参照ください。
- 外交官・国連事務総長のページへのリンク