外交官の見解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 09:04 UTC 版)
「モルドバの言語・民族性問題」の記事における「外交官の見解」の解説
オーストリア帝国のヨーゼフ2世やロシア帝国のエカチェリーナ2世は、当時オスマン帝国の保護下にあったワラキアとモルダヴィアを統合し、ロシアとオーストリアの間の緩衝地帯とすることを望んだ。新しい国家の名前として「ダキア」が提唱され、モルダヴィアとワラキア、ベッサラビアを統合するというものであったが、エカチェリーナ2世はこれをロシアの影響下に置くことを望んでおり、「ギリシャ計画」と呼ばれていた。また、1793年のイギリスの議会で、ホワイトブレッド(Whitebread)が、オーストリア帝国からベルギーを切り離して独立させるフランスの案について述べた際、ワラキア、モルダヴィア、ベッサラビアを統合してオスマン帝国から独立させドナウ連合とするエドマンド・バークによる案について言及している。イギリスの外交官で、大使としてオスマン帝国のイスタンブールに1747年から1762年まで駐在したジェームス・ポーター(Sir James Porter、1720年 - 1786年)は、オスマン帝国においてスラヴ人の次に人口が多いのは「ルメリア人 (Rumelians)」、あるいは「ローマ人 (Romani)」であり、自身を「ルムリ (Rumuryi)」と称するモルダヴィア人とワラキア人がこれに含まれると述べている。
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