外交官としての活動開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/02 06:56 UTC 版)
1934年8月、外交史料収集を目的に、蔣廷黻はソ連・欧州の視察に赴く。この際には蔣介石の依頼もあり、中ソ同盟の成立可能性についても調査するため、モスクワに3か月滞在してソ連の外交部門と交渉を行った。帰国後の1935年(民国24年)冬、翁文灝の推薦を受けて国民政府行政院政務処処長に任ぜられている。1936年(民国25年)10月、孔祥熙の推薦により駐ソ大使に任ぜられた。ところがまもなく発生した西安事件に際して、蔣廷黻は孔からの秘密裏の指示も原因ながら、ソ連を西安事件の首謀者とみなして抗議・糾弾する姿勢をとってしまう。これは逆にソ連からの抗議に遭い、しかも事件の実態が全く異なることが判明したため、蔣廷黻は外交部長張群から軽率な行動につき叱責を被ってしまった。 1938年(民国27年)1月、蔣廷黻はソ連大使の任を終えて帰国、同年5月に政務処長に復帰した。1941年(民国30年)7月、行政院秘書長代理に就任し、さらに国民党中央政治学校特約講師も兼任している。1943年(民国32年)11月、連合国救済復興機関(UNRRA)創設のための会議に中国代表として出席し、創設条約の起草・調印を行った。帰国後は国民政府にUNRRA対応の機関として行政院善後救済総署が創設され、1945年(民国34年)初めに蔣が署長に就任した。その前の1944年7月には、ブレトン・ウッズで開催された国際通貨金融会議に中国代表として出席している。
※この「外交官としての活動開始」の解説は、「蔣廷黻」の解説の一部です。
「外交官としての活動開始」を含む「蔣廷黻」の記事については、「蔣廷黻」の概要を参照ください。
- 外交官としての活動開始のページへのリンク