外交問題評議会参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 06:25 UTC 版)
「ヘンリー・キッシンジャー」の記事における「外交問題評議会参加」の解説
ハーバード大学院における博士課程修了後に、同大学政治学部で教鞭をとっていたが、外交問題評議会への参加を通じて、同時代の外交政策にも積極的な提言をはじめる。 特にキッシンジャーはアイゼンハワー政権の採用した核戦略(「大量報復戦略」)の硬直性を辛辣に批判し、のちのケネディ政権が採用する「柔軟反応戦略」のひな型ともいえる、核兵器・通常兵器の段階的な運用による制限戦争の展開を主張した。1960年代にはケネディ大統領の顧問として外交政策立案に一時的に関与することとなる。しかし、ケネディ政権で国家安全保障問題担当大統領補佐官に就任したマクジョージ・バンディがベルリン危機 (1961年)(英語版)に際してドイツ問題の専門家であるキッシンジャーを遠ざけたため、1年足らずの1961年11月に辞職している。また、南ベトナム駐在大使ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアの長男がハーバード大学で同僚だった関係で、大使の顧問として1965年から1966年にかけ3回サイゴンを訪問し、ベトナム戦争の現実を知った。この時キッシンジャーが国務省に行った報告が、ウィリアム・ウェストモーランド大将をベトナム派遣軍司令官から更迭する遠因になったという。また学者としてチェコスロバキアの情報機関と接触したことから、国務省が行っていた北ベトナム政府との秘密工作のひとつ(「ペンシルベニア」と呼称)と関わったが成果は上げられなかった。
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