坊の岬沖海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 05:28 UTC 版)
詳細は「坊ノ岬沖海戦」を参照 1945年(昭和20年)2月10日をもって第2駆逐隊は解隊され、朝霜は第二水雷戦隊所属の第21駆逐隊(駆逐隊司令石井汞大佐)に編入されていた。2月20日付で第二水雷戦隊各艦で人事異動が行われ、朝霜航海長芦田収大尉は海軍兵学校へ転勤、後任の航海長として戦艦榛名より出口勝巳中尉が着任する。また朝霜機関長原田周三機関大尉は秋月型駆逐艦3番艦涼月機関長へ転任。戦艦長門より佐多盛雄機関大尉が朝霜機関長に任命された。2月23日、第二水雷戦隊旗艦は霞から軽巡洋艦矢矧に変更される。朝霜以下第二水雷戦隊各艦は整備と訓練に従事した。3月19日の呉軍港空襲で対空戦闘を実施、大和や二水戦各艦の被害は軽微であった。なお、3月18日付で石井大佐は第21駆逐隊司令の職務を解かれ、後任の司令には3月25日付で小滝久雄大佐が任命された。3月27日、朝霜は第21駆逐隊の司令駆逐艦となった。 3月28日、第一遊撃部隊指揮官伊藤整一第二艦隊司令長官は第一遊撃部隊(大和、矢矧、駆逐艦12隻)の佐世保回航を各方面に連絡した。だが、アメリカ軍の機動部隊が九州地方を襲撃したため第一遊撃部隊の豊後水道通過佐世保回航は中止された。3月29日、周防灘に移動した。この日、同じく周防灘へ移動中だった駆逐艦響(第7駆逐隊所属)が触雷して損傷したため、朝霜は響の警戒艦を命じられる。響を曳航して一旦呉に向かったが、響の動力が回復して自力航行が可能になったため朝霜は周防灘に引き返した。触雷した響を曳航・護衛したのは初霜だったという響乗組員および初霜乗組員の証言も残る。 出撃前の作戦会議で、杉原(朝霜艦長)は「生死は問題ではないが戦果の期待できない自殺作戦には反対である。駆逐艦1隻といえども貴重な存在であり、国家は誰が護るのか、国民は誰が保護するのか、無為で死んではたまらない」と反論したという。4月6日15時30分、第21駆逐隊(朝霜、初霜、霞)は沖縄水上特攻作戦(天一号作戦)に第一航空戦隊(戦艦大和、第二艦隊旗艦)、第二水雷戦隊旗艦矢矧(司令官古村啓蔵少将)、第17駆逐隊(磯風、雪風、浜風)、第41駆逐隊(冬月、涼月)とともに徳山を出撃した。しかし、翌4月7日早朝、遊撃部隊が巡航速力22ノットで航行中、朝霜は機関故障を起こして速力12ノットしか出なくなり落伍した。朝霜側は呉工廠における減速機の修理が原因と判断していた。だが、第二水雷戦隊司令部は機関故障の原因をクラッチ故障にあったと推定している。 朝霜の落伍は、大和を含め遊撃部隊各艦から目撃された。3月まで朝霜機関長だった原田隊(涼月機関長)は、涼月より朝霜の後落を目撃している。朝霜では応急修理(予定五時間)を実施したが復旧せず、正午過ぎに『我敵機ト交戦中』『90度方向に敵機30数機を探知す』との無電を発した後、連絡が途絶えた。単艦戦闘であった上、生存者がいない為に各艦が砲煙らしきものを確認しただけで、その最期は明らかではない。涼月砲術長によれば、大和以下本隊から約30km離れていた朝霜は水平線上にマストだけが見えていた。アメリカ軍機の大編隊は第二艦隊を完全に包囲、旋回しながら攻撃タイミングをうかがっていたが、やがて一群が朝霜に急降下爆撃を行い、戦闘は数分で終わったという。 アメリカ側の記録では、空母バンカー・ヒルのSB2C ヘルダイバー10機が大和の攻撃に向かう途中、「北の駆逐艦(朝霜)をやれ!」との命令を受けて奄美大島近海を北上して朝霜を発見した。朝霜は左方向に逃げ続けたものの至近弾数発を受け、さらに爆弾3発(煙突の間、二番煙突後方、艦尾部)が命中した。艦後部(3番主砲付近)に爆発が起きたあと後部に傾斜。だが、アメリカ軍機は雲によりそれ以上の観測を妨げられた。また空母ホーネットII艦上爆撃機により、艦尾より沈没していったとの記録も残る。朝霜は消息不明となり、駆逐隊司令小滝大佐以下乗員326名全員が戦死認定された。 御蔵型海防艦屋代乗組員の回想では、哨戒任務中の屋代は漂流する朝霜を発見して曳航を申し出た。朝霜は「機関の故障復旧次第沖縄へ突入する」「貴艦のご好意を感謝す、航海の安全を祈る」と断わり、屋代側は健闘を祈って別れたという。初霜艦長の酒匂少佐は、朝霜が落伍・沈没した時に連合艦隊(司令長官豊田副武大将、参謀長草鹿龍之介中将、参謀神重徳大佐ほか)が漁船の手配など朝霜生存者を救助する努力をしなかったことに「突っ込めという命令は出すけれど、自分たちがやらなければならないことは何一つやっとらん。何という幕僚どもだということですよ、私は。」「武将としての務めを怠っていると言われてもしようがないと思いますがねえ。」と回想している。 一連の戦闘で大和及び第二水雷戦隊5隻(矢矧、朝霜、磯風、浜風、霞)が沈没、4月20日に第二水雷戦隊は解隊された。第21駆逐隊で唯一生還した初霜も同日付で第17駆逐隊に編入された。5月10日、第21駆逐隊は解隊された。同日、朝霜は夕雲型駆逐艦、帝国駆逐艦籍より除籍された。また、朝霜の沈没により夕雲型駆逐艦19隻は全艦喪失、また霞の沈没により朝潮型駆逐艦10隻も全艦喪失、19隻建造された陽炎型駆逐艦も雪風1隻を残すのみとなった。7月30日、初霜は触雷して擱座沈没し、第21駆逐隊に所属した駆逐艦6隻(初春、子日、若葉、初霜、時雨、霞、朝霜)も全隻喪失した。 現在、静岡県三島市玉澤の妙法華寺に、朝霜・愛宕・梅の慰霊碑が建立されている。
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